2019年8月7日水曜日

揺らぎと死生学 2


以下の部分は、7月12,13日に掲載した「フロイトと揺らぎ」との重複部分がある。

この様に少なくとも理論においては揺らぎの少ないフロイトであったが、彼が1916年に発表した「儚さについて」という短いエッセイはむしろ例外的といえるだろう。このエッセイはフロイト全集ではわずか数ページを占めるにすぎない。しかしフロイトらしくない気楽な筆致で書かれ、いろいろ刺激を与えてくれるエッセイである。特に揺らぎや死生観に関しては彼の考えを知る上で興味深い。
この「儚さについて」のエッセイでは、フロイトと美しい田舎町を一緒に散歩をしていてにある友人の詩人たち(リルケ、ルー・アンドリアス・ザロメ)が登場する。そのうちの一人がこう嘆くのだ。「あーあ、この美しい景色もやがて消えていてしまうのよね。寂しいわ。」(ちなみに私が少し脚色してある。一応ザロメの発言という事にしよう。)それに対してフロイトはこう言う。「いや、消えていくからこそ価値があるんだよ。」また彼はこうも言う。「それを楽しむことに制限が加わるから、それが希少だからこそなおのこと美しいのだ。」 フロイトの着眼点のするどいところは、ある種の境目、この場合存在から非存在に移行する時、ないしは両方が共存している体験の持つ微妙さに向けられている点だ。そして彼はそれを「Transience(儚さ、移ろいやすさ、移行) について」というタイトルのエッセイとして発表しているのだ。本書の読者には、これが臨界領域の問題と重なって見えることは当然だろう。
ところで、フロイトの言う「消えていくから価値がある」とか「希少だから美しい」というフロイトの主張は納得できるだろうか?  フロイトはこれをこともなげに、悟りきった感じで言っているように私には感じられる。そんなに割り切って考えることなどできるのだろうか、と思いたくなるのだ。私は全く分からないというのではないにしても、すんなり分かったとはとても言えない。むしろリルケやザロメの感覚の方がよくわかる。ただフロイトはここである種の二重視の問題を扱っているようだという事は分かる。
話を桜の花に喩えてみよう。「桜の花は散っていくからこそ美しい」。これは感覚的に頷ける人が多いかもしれない。その時、私たちは桜の花の向こう側の不在を同時に愛でているという事になる。「美しい」と共に「数日後には消えて行ってしまう」という感覚。いま思いついたが、台北の故宮博物院に、「白菜」が飾られている。といってももちろん本物ではなく、翠玉白菜(すいぎょくはくさい、虫がとまったハクサイの形に彫刻した高さ19センチメートルの美術品。← WIKI様)この展示の周りに人が群がり、「スゴーイ」となるわけだが、見る人によってはプラスチック製の安物の白菜に見えてしまうかもしれない。ところがこれがきわめて固い鉱物であるヒスイでできており、葉の部分にあたる緑色も実は原石の色をそのまま用いていることなどを同時に聞いていると、「ホホー!」感が増すことになる。あの硬い石をこれだけよく加工したものだという感動が加わるのだ。そしてそれは真の美しさとは別物という気がする。しかしそこには感動が伴うのだ。桜だってそうである。今見ておかないと消えてしまう、と思うとより注意を払ってみるだろう。あれだけ硬いものをよくぞこんなに削った、と思うとより注意深く眺める、というのと似ているのだ。これを私は二重視といういい方で表しているのである。