2019年8月3日土曜日

失敗と冪乗則 6


失敗を生み出す記憶の揺らぎ
さて失敗学から広がっていくが、私が毎日の体験で思うのは、記憶の揺らぎなのだ。これが失敗の大きな部分を担っている気がする。ちなみに私にとって最も難しいのは人の名前だ。誰かの名前を思い出せないと感じると、いくら努力をしても最後まで思い出せないという実感がある。これは抽象名詞との違いだ。抽象名詞なら、思い出そうとしたらそのうち出てくるだろうという予感がすることが多い。ちなみにこれは私が思春期以降持つ傾向なので加齢の影響とはあまり関係がなさそうに感じる。
まあ私の個人的な体験はいいが、興味深いのは、ある時に思い出せていた人の名前が、ほんの数分後には急に思い出せないという事がおきるということである。あるいは逆のことも起きる。テレビに出てきたある男優の名前が思い出せない。しばらく頑張るが無駄だと思い諦めてしまう。ところが12時間してふと名前が出てくる。その時はあまり努力をせず、別のことを考えていたりする。このように明らかに想起には揺らぎが存在するようだ。と言ってももちろんしっかり記憶しているものではなく、うろ覚えのものに対してこれは当てはまることが多い。
このような現象を考えるに、そもそも記憶の揺らぎを生み出すのは、シナプス結合の持つ揺らぎの性質であるということが推察される。記憶に直接関係するシナプス結合は、これほどいい加減でアナログものはない。
神経細胞の大雑把な構造は皆さんご存知だろう。樹状突起の膨大な数のシナプス結合から情報を受けた神経細胞は、それを様々な電気信号に変えて軸索を通して別の神経細胞へと送る。と簡単に言うが、実はこれがとても複雑らしい。これまで考えられてきた常識が次々に打ち砕かれて、神経細胞一個の振る舞いそのものが実に複雑であることがわかっているという。たとえばこれまでは樹状突起のいくつかのシナプスの、プラス、ないしはマイナスの信号が合算されて、その神経細胞が発火するかしないかという形で次の神経細胞に情報を伝達すると考えられた。そして各神経細胞で何を伝達物質にするか、つまりシナプス結合ではどの物質を用いるような神経細胞かというのは、決まっていると考えられていた。たとえばドーパミン系の神経細胞、ノルアドレナリン系の神経細胞、セロトニン系の神経細胞はそれぞれ独立して存在しているとも考えられていた。ところがひとつの神経細胞にこれらのうち異なるいくつかの伝達物質を用いるシナプスが混在することがわかったという。また樹状突起に存在するシナプスは、いくつか、どころか何千、ひょっとすると何万も存在するという。そしてその神経細胞が発生させる信号は、「時々発火する」、なんてもんじゃない。波になって絶えず送られていく。そしてその周波数も、振幅も様々に変化しうるし、その波自体がただの正弦波ではなく、正弦波の上により小さな波が乗っかって複雑な情報を形成する、という一種のフーリエ級数的な信号なのだ。
するとあることを記憶するときに成立するシナプス結合、というのは「切れた、あるいはつながった」という単純なものではとても表現できない性質のものということになる。それはおそらくいくつものシナプス結合の集合であり、記憶Aが定着するためにはその集合の数が大きくなり、またそのつながり具合もしっかりした状態と言えるが、うろ覚えの状態ではその記憶に関するシナプスの数は揺れ動き、あまり思い出さなければ少なくなっていき、あるいはそのシナプス自身のつながり具合もおとろえていく。また別の記憶Bを記憶する必要があると、
記憶Aに使われていたシナプスのいくつかはそちらのほうに使われ、またそのシナプス結合は似たような記憶A‘が想起された場合にはそれに引きずられて想起されやすくなったり、かえってそれと混同する運命になったり、またCが想起されることで逆に想起されにくくなったりする・・・・・。
簡単に言えば、ある記憶Aの強度は常に揺れ動き、その想起のされ方はその時々で異なってくるのである。
さて失敗との関連でこれを書いているので、この記憶の揺らぎもまた失敗に貢献していることを示したいのであるが、これは先ほどの歩行者の不規則行動とは別の次元の要因であると言える。不規則行動自体は外的な要因と言える。これが三つ重なると誰でもおそらく確実に失敗を犯す、という風に。ところが記憶の揺らぎはその人の内的な出来事であり、おそらくそれを防ぐことはさらに難しくなる。
内的な要因による過ちについて論じる上で、この種の記憶の揺らぎ以外にも、注意の揺らぎというのがあり、これが事故が起きる要因の重要なもののひとつのように思われる。最近あった事故で、ある私鉄の職員が、点検のあと「線路の切り替えを元に戻すのを忘れた」というのがあった。これをヒントにしよう。わかりやすくするために、朝でがけに家の鍵を閉めるという事を忘れるということに置き換える。このどちらも似ているのは、Aの次にはBを必ず行う、ということが普段は徹底していて、それだけは絶対忘れまいとすると言う努力をその人は常に行っているであろうからだ。「何を忘れても、これだけは忘れない」という類のことなのである。しかし魔は差すもので、これが往々にしておきてしまう。なぜだろうか。これもおそらく揺らぎなのだ。
たいてい私たちはAをしたら次はBという段取りを頭と体に徹底させている。ほぼ反射的にこれを行うのだ。それはあまりに身についていて、どこかに書き付けたり、「~忘れ注意!」などと張り紙をすることもない。世の中のどこに、「家を出るときは鍵を閉めよ!」と始終唱えている人などいるだろうか。