2019年8月10日土曜日

揺らぎと死生学 3


フロイトはちゃんと諦めていないから未練が残るんだ、ということを言っている。でもフロイトには失礼だが、それは理想論過ぎる、というのが一般的な反応ではないだろうか。美しさは、失われてしまうことを十分に受け入れた場合にこそ本当の美しさがわかる、要するに美が失われるのを嘆くのは、諦め切れていないからだ、というのがフロイトの主張だが、そもそも諦め、とはいったいなんだろう。諦めとは期待を抱かないことだろうが、人間に将来に期待を抱くのをやめることなどできるだろうか? 期待を抱くとは、未来において自分が体験することを想像して喜びを感じることだろうが、それをなくすことなど本来できるだろうか?そしてこのことはまさに死生観についても言えることだ。フロイトがここで言っていることは、要するに人間にとっての生死の問題についてそのまま当てはまると私は考える。だからこそ「喪の作業への抵抗」などという言い方をしているのだ。ところが自らの死に対するフロイトの姿勢は葛藤に満ちていた。
ネットで拾った Ana Drobot  という人の文章を参照する。フロイトはこんなことを言っているらしい。死とは、「人生のすべての目的だ the aim of all life」と。人は常にこのことを考えていなくてはならない。人は人生を自然から借りているだけなのだ。フロイトは「人は死んだことがないから想像の仕様がない」と言う一方では、私たちが感じるよりもはるかに、私たちは死により支配されていると言う。しかしそれにもかかわらず、死は想像できない以上、死が怖いと私たちが言うときは、本当は死とは別のものを恐れているのだと言う。たとえばそれは、見捨てられ、そして・・・・でてくると思った。「去勢への恐怖。」
そうこうしているうちに、面白そうな論文に行き当たった。Blass という分析家の、On ‘The Fear of Death’ as the Primary Anxiety: How and Why Klein Differs from Freud. Int. J. Psycho-Anal., 95(4):613-627 2014年の論文だ。これによるとメラニークラインは、人間の不安はすべからく死への恐怖に還元することができると言ったらしい。フロイトとまったく逆だったのだ。ちょっと読んでみよう。
こんなことが最初に書いてある。クラインは、「不安は死への恐怖に由来する。」と言っている。フンフン。「つまり死の本能が不安の根源にあるのだ。」エー!! 死の本能と死への恐怖はまったく別物ではないか!!死への恐怖はよくわかる。でも死の本能って何?両方を混同することはあってはならない。なんだか読んでいるうちに、知りたいことがあまり出てこないことがわかった。そこで寄り道は中止。
とにかく私が何をいいたいかと言うと、喪の作業というのは連続的なものであり、「喪の作業、ハイ終わり。もう失った人のことで悲しむのはおしまい」という単純なものではない、ということだ。喪の作業は、これまた揺らぎである。やっとさよならが出来た、と思える瞬間の次にはどうしても諦めきれないという無念さが押し寄せてくる。この揺らぎを経て人は喪の作業を行っていくが、それは漸近線のように完了のほうに向かうものの、決して100%終えることは出来ない。人は決してあきらめ切れないのだ。
われらが I.Z. ホフマンは、だからこういっている。「コフートやエリクソンのような、死の恐怖は生への適応を十分遂げていない証拠だという主張は当たらないのだ。」つまり喪の作業、ないしは死への諦念を完了することが精神の成熟であるという考え方はおそらくあまりに理想主義的なのだ。それは私たちの生が有する本来的な揺らぎの本質を理解したものとは言えない、というわけである。