2019年8月11日日曜日

神経ダーウィニズムと揺らぎ 3


神経ネットワークについて書き始めたこの文章を最初から読み直すと、われながら結構わかりにくい。このままだと「大脳皮質によって決定されることは、最も大きな報酬系の刺激を起こすものであり、だから決定論的である」という風に読めてしまうかもしれない。つまりそこに揺らぎとかいい加減さとかは存在しないことになってしまう。しかし実はそこには膨大な揺らぎが存在するということを言いたいのだ。
そこでカレーとハヤシの例に戻る。私たちはどちらかを選ぶように迫られている。何しろ訪れたのはどうしようもないほどにシンプルなレストランで、メニューには、「1.カレー、2.ハヤシ、以上。」としか書いておらず、あとはサンプルの写真が載っているだけだ。その時あなたはそれぞれを食べているイメージを頭の中で比べる。おそらく一つ一つを交互に思い浮かべることもできるが、その様なときには神経ネットワークにダーウィニズムはあまり働かない。「カレーの方は総合評価5、ハヤシは3.5くらい、ということはカレー!」などとやっているのだろう。その場合はダイナミックな陣取り合戦はおそらく起きないのだ。しかしその選択を一瞬で行なうべき時は、それらを同時に比べており、二つの候補のうち、例えばカレーがそのテリトリーを奪り去ってしまうのだ。それが無意識的に行われていればいるほど、そこでの決定はダーウィン的なのだ。それではそこでの勝敗を決めるのは何か、ということになり、先ほどの報酬系の話が出てきた。報酬系により訴える方の選択肢がグングン陣地を広げていくというわけだ。
 しかし報酬系はダーウィニズムが働く際の一つの駆動ファクターでしかない。おそらくそれ以外の、偶発的、恣意的、あるいは明確な理由のない因子がはたらいて選択が行われていく。それも瞬時のことなのだ。そうでないと人間の日常的な機能に追いつかない。何しろ決めるべきことは各瞬間に膨大に押し寄せるからだ。カレーのお皿が運ばれてきても、どちら側から食べようか、どのタイミングで水をのどに流し込もうか、どのペースで食べようか・・・・。これらのことを私たちはほとんど考えずに決めている。そしてそこに揺らぎの問題が介在している。(カレーを食べる、という作業をたとえばAIにやらせてみたら、そこに膨大な決断や筋肉の運動や間接の伸展屈曲などが介在していることがわかるだろう。)
ここにもう一つのわかりやすい例を挙げよう。言葉を話すという行為だ。私たちが用意された原稿を読むのではなく、言葉を選択しながらフリートークを行うとき、おそらく頭の中ではかなり高速で文章が構成されていく。発話される文章は、そのほんの0.5秒前には脳の中で構成される、といった感じだろう。ではいったいどのようにして文章がそのように高速で構成されるのか。それはおそらくほとんどが無意識レベルでの作業ということになる。するとそこで適当な単語が選ばれるプロセスは、無意識レベルで生じているダーウィニズムを他に考えられない。
 たとえば私は「ほんの0.5秒」と先ほど表現した。その時「ほんの」が出てくるのに一瞬時間がかかったことを覚えている。それは「わずか」でも「たった」でもよかったのであるが、選ばれたのは「ほんの」であった。その瞬間私の大脳皮質のある場所(ブローカ野?)では六角形のタイル達の間の争奪戦が起き、結果として「たった」が優勢となり決着がついたということになる。
さて私にはどうしてその時「ほんの」が出てきて「わずか」に勝ったのかわからない。今このように少し熟考してみたとしたら、私はおおそらく「わずか」の方を選んでいただろう。それはより文語的でこの学術的な文章(これでも?!!)にふさわしいからだ。でも先ほど瞬間的に選んだのは「ほんの」であったし、おそらくそちらが選ばれたのは、ちょうど砂の山のどこから崩れ出すか、というのと似たような偶発性が絡んでいたのだろう。たいした理由はない。たまたま、つまりは揺らぎなのだ。つまりそこに働いているのは厳密な意味での快感原則ではない。報酬系の絡んだ選択では、おそらく最終的に勝利をおさめたのは「わずか」なのである。ところが瞬間的には「たった」がその時は勝ってしまった。問題は果たしてこれもダーウィニズム的な動きと呼べるのか、ということである。進化論的に問えば、たまたま生じた突然変異により生まれた新しい形質が生き残るのは、はたして「環境に適していた」からだろうか? この問題はおそらくジェイ・グールド(著名な進化生物学者)に聞いてもわからない、と答えるだろう。しいて言えば、「どっちもあり」ということになるだろう。