2019年7月7日日曜日

解離への誤解 推敲の推敲の推敲 3


解離の治療の将来に向けて

最後に本題とも言える解離性障害、特に解離性同一性障害(以下DID)の治療論に触れたい。その骨子はすでに述べた解離性障害に対する現存する様々な誤解を排した治療的な関与をいかに行うかという事である。特に重要なのはDIDの交代人格に対して丁重にかつそれぞれの主観的なあり方を尊重しつつ会っていくことである。その際療法家と各人格との個別の治療関係を重視すべきことは言うまでもない。その上で筆者が重要だと考えるのは以下の二点である。第一点目は、「人格の統合」をすくなくとも治療の念頭に掲げないという事であり、第二点目は自然軽快の可能性を重視しつつ治療を行うことである。

1.「人格の統合」を治療の念頭に掲げない
DIDはその症状の特異さのために治療者が特別に興味を示すのみならず、その治療的な情熱が空回りしてしまう可能性がある。そして時にはそれが逆効果を生む可能性もある。その一つが人格間の統合をやや性急に目指すという方針である。すでにポリサイキズムについての論述の際に述べたとおり、複数の心が別個に、しかし関わり合いつつ存在するという事は、私たちの常識にいかに反しようとも現実に生じている。複数の心は時には常に対話をしながら物事を決断している様子が見られたり、まじりあってどちらかわからない状態を訴えたりする。時には人格Aが人格Bの口調や習慣を取り込むこともある。これらはしかし別々の心が存在することを否定するのではなく、それらが混同されたり、混線したりするという事情を示す。そして治療者はあたかも家族間の意見の相違や葛藤を軽減することを手助けする家族療法家のような役割を荷う。しかし家族療法家の掲げるべき目標は家族のメンバーが心を一つにする、という事とは程遠い。むしろお互いが互いの立場の違いを認めつつ平和共存することを目指すべきであろう。DIDの治癒の先にあるのは統合 integration や融合 fusion であるという考え方は、DIDの再発見やそれの啓発に尽力した米国の解離研究者の第一世代に属する人々が掲げた目標である。しかし現在の解離性障害の治療者達はより現実的になり、現実には統合や融合と言われた状態がいかに達成が難しいかを感じるようになっている。時々統合が達成されたと報告されたケースと話す機会を持っても、「統合せよ」という治療者側の暗示を取り込んだ結果として一時的に「統合」状態の体裁を保っているという事が多い。実際に複数の人格のエッセンスを持った一人の人格が、治療者の願望を取り込むという形ではなく自然な治療経過として成立したのであれば、全く問題はないどころか歓迎すべきことであろう。ただそれに向かって突き進む治療態度が患者にとって必ずしも助けになるとは限らない。(筆者は残念ながらそのようなケースに個人的に出会ったことがない。)
人格の統合を目指す方針は、ある意味では解離性障害に対する誤解の裏返しと考えられなくもない。ポリサイキズムを否定し、複数の人格の存在は異常な事態であり、修復されるべきであるという考え方である。

2.自然軽快の可能性を重視する
上述の1と関連して重要となるのが、解離性障害の「自然経過 natural course」を十分把握し、それに基づいた治療を行うことである。解離性の複数の人格の存在にはおそらく幼少時の体験が大きく関係しているであろうが、もその後の経過は個々人により大きく異なる。各人が同居生活を送る際、同居人は当人をサポートし、治療的な役割を果たすことが多いが、同時にストレスやトラウマを与え続ける存在ともなり得るが、その事情も自然経過を大きく作用する。
幼少時に生まれた人格の核とも言うべき存在は、その生活の中で晒されるトラウマ的なストレスにより顕在化しやすいのは確かである。しかしそれが少ない場合には、交代人格の出現の機会はおそらく思春期~青年期前期をピークにして徐々に減少していくことが多い。それは交代人格が統合されていくプロセスではなく、主要な人格をのぞいて冬眠状態に入っていくからである。DIDの多くはこのような形で「自然治癒」していくという可能性があり、その多くはおそらく臨床例として同定されることすらないであろう。
しかしもちろん自然治癒のプロセスを踏まないケースも多くある。その場合は人格の複数化が慢性的に継続し、その中でも感情的な人格がその人の社会生活上の適応を難しくするという事が繰り返される場合がある。慢性的な鬱や引きこもり状態へと移って行った場合、DID状態は中年期以降も継続する可能性がある。その場合には単身生活が難しいためにストレスフルな同居者との生活を余儀なくされる可能性も高い。さらにはそれなりの社会適応を送り、明確なストレッサーとは距離を置いて生活をしていても、過去の体験のフラッシュバックが延々と続き、人格交代が継続してしまう例もある。
解離の治療者は患者がこの様な「自然経過」の可能性を背景に持っていることを理解すべきであろう。心理療法家としてはこのような全体を見つつ治療を進めていくことになる。管理医としては環境調整や併存症としての抑うつやパニック障害への薬物治療が欠かせないであろう。管理医はたとえ薬物調整のためのみ時間時間しか面会できない場合も、いくつかの人格の存在を受容する態度を決して崩してはならない。
治療上問題となるのは、すでに「自然治癒」プロセスが進んでいる際に、徐々に眠りについて行く人格にいかに関わるかという点である。結論から言えば、冬眠した人格を揺り動かすことには治療的な意味は少ない。ただしこれは禁忌事項ともいえないであろう。事実そのような「寝た子が起きる」現象は偶発的に起きうる。それまで順調に経過していた人でも、ある日夢で過去のトラウマの体験が蘇った場合には、その時の人格がしばらく起きだして活動するという可能性がある。あるいはかつて治療者の前では頻繁に出ていた人格が、間遠になりつつある心理療法の際に「顔を見せに」訪れることがある。その際に心理療法家は彼自身に患者の過去の虐待者を髣髴させるなどの可能性がない限りは久しぶりの再会を懐かしむのもいいであろう。ただ自然治癒過程にある患者に対して過去のトラウマ体験をことさら扱うことの治療的な価値は疑わしい。療法家の側が独自のこだわりを持って患者の過去の再構成をシステマティックに行うことの治療的な意味は常に問われるべきであろう。