ゆらぎと快楽
さて本章の最後のテーマは、揺らぎと快楽ということである。
大分昔のことであるが、田口ランディという人のエッセイを読んだとき、彼女が書いていたことが印象に残った。それは、いい小説とは、それを読んだ後に、不可知の世界に放り出されるような小説だ、というような話だった。それが人間を描いたものであれば、人間がますますわからないとともに、それが強烈な好奇心を刺激するようなものでなくてはならない。人間とはこういうものだという結論をポンと出しておしまい、では何も余韻が残らず、読者にそこから先を考えさせてくれない。私は心についても宇宙についても、ゲノムについても、脳についてもとても惹かれているが、それは分からなさが自分を惹きつけるものとして体験されるからだ。そしていい加減さやゆらぎも、それは自分の人生の先が見えないながらもその予測不能さがある種の楽しみとして体験できることに意味があるのだ。それでこそいい加減さは生産的になるのだと思う。
このこととの関連で先ほどのサイコロふりの話に戻ると、良質のいい加減さはおそらく創造性に結びついていくと思う。というのも何かを決めようと意図しないときにふとおきる行動やふと思い浮かべる表象は、それ自身が何らかの芸術的な価値を持っている可能性があるからだ。良質のいい加減さは、それ自身は問題の解決に結びつかないとしても、創造性に絡んでくると言うのが私の考えである。
私たちは~すべきだ、という人生にふつうは容易には耐えられない。それよりはいい加減であるほうが好きなはずだし、そうでなくてはならない。それは私たちが自分の将来に未知の部分を含ませることができるからである。そのためにはわからないことを楽しめなければならない。もちろん「~すべきだ」に耐えられる人たちもいる。そちらの方がむしろ好きだ、という人もいるかもしれない。しかしそれではある種の不安や恐怖に駆られて、それを逃れるために~すべきという人生を送ることになる。その場合は「~すべし」に従うことで安全が確保される。そのつらさと引き換えにある種の保証が与えられるからそれを行っていることになる。ただしそのような人生にはおそらく創造や探求や新奇さへの刺激は望めないであろう。
ここでいい加減さと「1/Fゆらぎ」の概念に結びつきが生まれる。「1/Fゆらぎ」が人の感覚器に心地よく体験されるのは、それがある種の新奇さと、なじみ深さの混合だからである。ろうそくの炎の揺らめきを眺めてみよう。それは一方から他方にフラフラと揺れているようで、どの動きとて同じものはない。それはなじみの動きでありながら、一回一回が新しいのである。(「1/Fゆらぎ」についてはすでに書いたことがあるから省略。)