そもそも排他的な決断は重要であり環境適応的であった
両極の間をさまようといういい加減さについて論じ始めたわけであるが、それとは全く逆の状態についてまず考える必要があることになる。曖昧にしない、白か黒かをはっきりと決めるという事である。これは精神分析で言うところのスプリッティングであり、メラニー・クラインの言うPSポジションである。そしていい加減さの意義について考える際にその前提にあるのが、私たちが物事をスプリットしやすいという性質であろう。そして私は実はスプリッティング、すなわち白か黒かに決めることは、私たち、あるいは生命体が生きていくために欠かせない能力なのだ。私たちが白黒を付けたがるという性質は、そもそもそうしないと生き延びられなかったからなのである。スプリットすることといい加減であることのどちらが生命現象にとって重要かと言えば、答えは間違えなく、スプリッティングの方である。そして少し先の方の議論まで言ってしまえば、スプリッティングする能力は、実はいい加減さにより保障されているという不思議な関係があるのだ。
はるかに下等な生物でも、目の前の獲物が安全なのか毒なのかの決断をしなくてはならない。さもないと栄養を補給するつもりが逆にいのちを奪われることになりかねない。あるいは目の前の動物が天敵か、それとも獲物かの判断も必要だ。その選択を誤ると、生命体は命のつなぐための捕食行動を行うことが出来ず、逆に捕食されてしまう可能性がある。あるいは目の前の道が泉やオアシスに通じるか、それとも砂漠に向かうか? これを誤ると生命の維持にとって不可欠な水を獲得するどころか、炎天下で干からびで死んでしまいかねない。
私たちの日常生活を考えてもこれは全くと言っていいほど当てはまる。私たちは生きていくためには常にgood とbad を分けなくてはならない。冷蔵庫に入っている賞味期限が微妙に切れている食材は、使うか捨てるかしなくてはならないのだ。そしてこのイエスかノーかの決断を適切に行わないと、私たちは食中毒を起こしたり、どんどん賞味期限の切れた食材が冷蔵庫に貯まって行ったりする。
あるいは社会で生きていく上では敵と味方を分けなくてはならない。私たちはおそらく社会生活の中で、この人は信用しよう、この人とは距離を置こう、この人とはもう別れよう、などとかなりあれかそれかの判断をしている。もちろん人間は信用できるか、出来ないかの二種に峻別することはできない。ところが日々の生活はそこにかなり明確な○か×かを付けて生きている。それがメリハリというものだし、その種の決断はその人が社会生活を送るうえでむしろ必要とされている能力でもある。
心でサイコロを振ることの重要さ
さてそのような間断なき選択の中で、ひとつの問いを立てよう。それはAとBという選択肢が、同程度にありうるとしたらどうだろう? あるいはどちらが正解かがわからないときにどちらかを選ばなくてはならないときにどうしたらいいのだろう? このようなときにそれでも心の中でさいころを振ることが出来るには、本当の意味でのいい加減さが必要となるのだろう。もう少し言えば、どちらでもいい時に、でも実は微妙な違いを感じ取って、無難な方を結果的に選んでいく能力というのは非常に高度の力を必要としているといえるであろう。皆さんは外国に行って、コーヒーにしますか、紅茶にしますか、と聞かれて「どちらでもいい」と答えるわけにはいかないという事はよくご存知だろう。白黒をつけることは物事が円滑に進むためにも重要なのだ。そしてそのような状況で決められない病気を私たちはよく知っている。それが強迫性障害だったりするのだ。しかしもっと言ってしまえば、私たちが言葉を用いて人とのコミュニケーションを成立させている以上、どちらでもいいがどちらかに決める時のいい加減さはむしろ必然になってしまっているのかもしれない。
そして実を言えば、このどちらでもいいときにどちらかにさいころを振る振り方がその人の運命を決めるといってもいいのだろうと思う。というのも意識的にはどちらでも同じだと思っていても、無意識に培われたものがさいころを振る瞬間に影響を与えている可能性があるからだ。それがどのようにさいころの振り方を決定するのか、というのはまだ私たちはぜんぜんわかっていないと思う。つまりいかに良質のいい加減さを獲得できるかは非常に重要なテーマなのだ。
ただしそこにある特別なメンタリティが働いているように私は思う。それはある意味では正解がないことに耐え、そこでの選択に際して後悔をしないということかもしれない。なぜならA,Bの選択が両方とも同程度にありえる場合には、Aを選ぶことにより得られるものと失うものが見えているからであろう。そしてそれはBを選択することにより得られるものと失うものを知っているということになる。AとBの選択はもはや優劣ではなく、異なる人生の選択ということになり、それは異なる運命に身をゆだねることになるのであろう。
どちらも同じように好ましい選択肢のうちどちらかを選ぶ、ということはだから後悔を伴わないわけであるが、そのような選択を生と死というきわめて重大に思える選択肢の間で行っていた人たちを描いているのが、司馬遼太郎である。彼の描く人々、たとえば坂本竜馬や西郷隆盛という幕末の志士たちの人生観とはそのように見える。以下の司馬遼太郎の文章を引用しよう。
「しかし戦に負けて軍艦が沈めばどうなります?」「死ぬまでさ」と、竜馬はむしろ饅頭屋の顔を不思議そうに見、当たり前だよ、といった。「然し死ぬのはまだ惜しいです。」「惜しいほどの自分かえ、饅頭屋」「饅頭屋はよしてください。」「では長さん、男はどんな下らぬ事にでも死ねるという自信があってこそ大事を成し遂げられるものだ。」…… (竜馬がゆく 6、司馬遼太郎1998)
この度胸のよさはどうだろう?
あるいは次のような葉隠れの文章を引用しても言い。
武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。
図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当るやうにすることは、及ばざることなり。我人、生くる方が好きなり。多分好きの方に理が付くべし。
これはいざと言うときに死を覚悟していれば、行動を誤ることはないという意味である。
私はここにはまた不可知論が深くかかわっていると考える。それは正解はわからないし、未来はわからないし、その大きな不可知の前で人の命ほどはかないものはないということである。なんという壮大でかつ深い思想なのだろうか?