2019年7月10日水曜日

脳細胞は揺らいでいる 2


ではこの揺らぎにより脳は何を行っているのか。それは脳が「活動依存的」(自分の活動に影響されること)であることであり、いわば自分で自分を書き換える作業を行っているという事だ。具体的にはシナプスの重みを強くしたり弱くしたりしているのだ。各神経細胞は他の沢山の神経細胞と手をつないでいるわけであるが、シナプスとは別の細胞との信号の伝達の連絡路である。シナプスが増えれば連絡しやすくなり、それが減少すればしにくくなるわけである。
この活動依存性というのをたとえ話で説明しよう。子供が元気にはしゃぎまわる。そして知らぬ間に筋肉を動かし、視覚、聴覚活動を行う。するとたとえば筋肉はそれにより使った分だけタンパク質を合成することで筋繊維が太くなっていくし、聴覚的な情報が蓄積されていく。これらが「活動依存的」な例としてわかりやすいだろう。逆に老人が起き上がれなくなり、筋肉を使わなくなると、自然と筋繊維は痩せていくことになる。使わなければそのまま、というわけにはいかない。使わないという意味でのマイナスの活動が、やはり筋繊維の太さに影響してくる。
神経細胞はほっておいても自発的に信号を生み出しているが、それにより他の神経細胞との連絡を行い、それにより連絡路のシナプスの強度を強めたり弱めたりする。神経細胞には、別の神経細胞と同時に興奮した時にはその細胞との間のシナプスを強くするという働き(いわゆるHebb )というのがある一方では、使わないシナプスはだんだん痩せていく運命にある。寝たきり老人と同じだ。こうして神経細胞はほっておいても活動を続けるわけだ。
これを書いている間に、大阪で先日あったG20のことが思い出される。19か国の首脳とEUの代表が一堂に会すると、お互いに行き来をして公式に、非公式に話し合いが行われていく。そこには思わぬ出会いや計画されなかった会話が成立するだろう。そして予想しなかった動き、たとえばトランプさんが急に北朝鮮に飛ぶ、という事まで起きてしまう。神経の活動も、個々の細胞が決して休まることはないわけだ。そしてこの個々の細胞の活動を少し強引に二次元平面に落とし込むと、揺らぎ、という形で表現されるというわけだ。
この脳細胞の揺らぎの説を唱えた池谷氏は、脳とは何か、心とは何か、というテーマに関して、並々ならぬ洞察を示している。その中でも最も特徴的と言えるのが、彼の非再現性の理論である。彼は自発活動は永久的な安定性や平衡性はないのではないかと考えたという。つまり自発活動は安定な状態ではあっても一回だけのものなのだ。彼はこれを「非エルゴート的」と表現する。エルゴート的、ないしエルゴート理論というのはかなり込み入っていて、科学の専門でない人間にはかなり難解である。私も少し調べてチンプンカンプンであった。そこでここでは一回性という事だけを考えよう。
さてこれが科学者の中では非常に人気がないという。ある現象を研究し、そこに何らかの普遍性を見出さない限り、科学には意味がないだろうと凡人は考える。ところが池谷先生は堂々とこれを主張し、それを科学の研究対象にしようという。これは何を意味するのだろうか?
話を揺らぎに戻す。脳細胞は揺らいでいる。つまり細かい揺らぎを持った電気信号が観測される。表面上はギザギザで規則性があるような内容な、しかしまったくデタラメではない、まさに揺らいだ状態としか表現できないような動きを示す。
ちなみにこの一回性という現象、カオスについての項目をお読みになった方にはむしろ当然のように思えるだろう。難しい例を出すまでもない。風にはためく日の丸の旗を思い浮かべよう。その動きを何十時間ビデオにとっても、決してまったく動きを繰り返すことはない。どの瞬間をとっても一回性が見られる。たとえ全く同じ画像が取れても、次の瞬間に生じる旗の動きは微妙に、あるいは明らかに異なるわけだ。しかし皆さんはこう指摘されるまではおそらく「未来永劫、旗が同じはためき方を繰り返さない」という事をまともに信じようとするだろうか。この様に一回性は私たちの日常感覚には受け入れがたいところがある。ましてや心の専門である私たちがこれを受け入れることは、心の示す典型的な病理や、夢や、あるいは各個人のパーソナリティはすべて幻想だ、という事になりかねないので顔を背けたくなるのだ。しかしすべての人間が他と全く異なり、各個人が人と会い、そこで考えたり発言したりする仕方は毎回全く異なり、そこには常に再現性がないと知ったなら、もう臨床など辞めたくなってしまってもおかしくないだろう。