さてこの Wauchope-安永の理論に従えば、「儀式-自発性」もパターンを形成すると考えられるが、これは上に示した「生きた挙動-死・回避の挙動」のパターンが治療関係においてどのように反映されているかを言い換えたものと言える。なぜならHoffman は儀式を「技法的な熟練」を、自発性を「特殊な種類の愛情や肯定」と言い換えているが(Hoffman p.xix)、このうち特殊な種類の愛情や肯定はそれ自体が独立した体験として理解され、それはある種の自発性や快と結びついているからである。そして技法的な熟練は、愛情や肯定だけが暴走するだけでは非治療的、ないし非倫理的になってしまいかねない部分を回避し、ある種の構造内に収める部分と言えるからだ。ただし Hoffman の「儀式と自発性」はそれをパターンと見なすならば、「自発性―儀式」と表記されなくてはならない。なぜなら自発性≒生きた挙動は、儀式≒死・回避の挙動に比べて上位にあるからである。
このように Hoffman の表した「儀式と自発性」の弁証法を、Wauchope - 安永の理論の言う「パターン」という文脈から捉えなおした場合にそれが意味することは比較的明快と言えよう。すなわち「治療にはまず治療構造や技法的な熟練を用います。」という表現は一見理にかなっているようで、正確ではないのである。「治療はそもそも治療者から患者に向かう特殊な愛情や肯定の気持ちがあり、それは同時に技法的な熟練によっても支えられています」という言い方のほうが正確ということになる。
さて、ここまででもう結論に向かい始めようと思ったが、ここでひとつ気になる論点がある。特定の治療関係、たとえばAというクライエントとBというセラピストの間で生じる治療関係において生きる挙動と死を回避する挙動の弁証法は成立しているであろう。しかし治療は真空の中で行われているわけではない。治療をクローズドシステムではなく、オープンシステムで生じていることと捉え直そう。たとえばセラピストBは、仕事として臨床活動を行っている。Aさんとの治療は彼の臨床活動の中に埋め込まれているといえるだろう。そしてBの臨床活動そのものが、生きる挙動と死を回避する挙動の弁証法を有している。そしてそこにはAとの治療関係にはとどまらない事情が存在することになるだろう。
たとえばBはセラピストとしての仕事を天職と感じ、喜びに満ち溢れながら仕事を行っているのかもしれない。あるいは逆に別の職業を目指していて、そちらに比べればセラピストの仕事には低いモティベーションしか持てず、しかし経済的な事情からやむなく患者と会っているのかもしれない。そしてこのことはAとBの治療関係というシステムに実はきわめて大きな影響を及ぼしていることになる。ただしたとえばBが治療を喜びに魅して行うからと言って、Aとの治療関係が生ける挙動、つまり積極性をより多く含んだものとなるという保証はない。Bは治療という行為を楽しむからこそ、それが儀式的な部分を多く伴った比較的困難なプロセスであっても、それを耐え忍ぶことが出来るかも知れない。逆にBは治療活動そのものを楽しめない事情があり、だからこそAとの治療を「楽しいもの」にしたいという気持ちになるかもしれない。Bが積極性と自発性をはっきり、構造を超えたプレイフルなスタイルの治療を行うことにもつながるかもしれないのだ。しかしそれはBにとっては生き生きしたものであっても、患者Aに対してそうなるとは限らない。この様に考えると改めて明らかになるのは、生きる挙動と死を回避する挙動の弁証法という関係は、Aの体験する治療と、Bの体験する治療では異なるものであり、基本的には分けて考えてしかるものであるという事だ。
しかしこれ以上こうやって考えていくと頭が混乱してしまうので、ここまでとしよう。
まとめ
治療とは自発性(Hoffman によれば特殊な形の愛情、肯定)がその底流にあるという提言は精神分析的な考え方の根本部分に反するのであろうか?あるいはそれと整合性を有するのだろうか? 私の答えは出ないが、ひとついえるのは、関係精神分析的な流れはこの自発性と深くかかわって来たということがわかる。そもそもフロイトのリビドー論や解釈を中心とした治療技法を越える形で生まれた関係精神分析は、治療者と患者の間の生きた交流に焦点を絞り、いわば血の通った治療関係を目指そうとしたところがある。関係精神分析を間接的、直接的に支えてきた人々、ウィニコット,フェレンチ、サリバン、コフート、スティーブン・ミッチェルらを思い浮かべた場合に感じるのは、彼らの持つ積極性やバイタリティである。それは精神分析をより開放された自由なものへと作り変えていくことを目指していたということがある。さらにはその全体の動きと平行している乳幼児精神医学は赤ん坊の持つ「生きた挙動」にその研究の全体を依拠させているところがある。現代の精神分析はおそらく、その治癒機序を技法的な熟達に求めるのではなく、いかに特殊な形の愛や肯定が真に治療的な価値を用いるための技法の最高へと向けることを最大のテーマとして提起しているのである。