2019年6月28日金曜日

書くことと精神分析 6


さてネット出版に関しては私自身の体験も含めて語ってみたい。かつてアメリカの知人が素人ながら哲学的な文章を執筆していた。彼は黙々と書き溜めたその内容を、出版するという。そんなことは出来るのかと思ったが、彼はアマゾンを通してそれを無料で自費出版したという。米国ではそのような積極な方が結構いらっしゃるようである。そのことが私の興味を引いた。私には英語の著書はないが、日本語の著書はあるので、そのうちの一冊をざっと英訳して(何年も前にこのブログでも連載したからご存知の方もいるだろう。半年ほど毎日英語の文章を書いていた、アレである)。私はごく単純に、日本語で書いた本を英語に自分で翻訳したらモノになるのかが知りたかったのだ。作業はさほど苦痛でもなく、むしろ楽しかったくらいだ。ただしもちろん英語に直した後にネイティブチェックが必要であり、それにかなり費用をかけることとなった。まあ必要経費だから仕F方ない。(ネイティブチェックとは、英語を母国語としない人の文章を、ネイティブスピーカーに校正してもらうことである。)そしてさっそく米国の出版社に売り込んだのだが、ことごとくボツである。もちろんその事情はよくわかる。日本の専門書の出版社に出版の経歴のない人間が原稿を持ち込んでも、門前払いを食らうのがふつうである。それが解離関連の本なので、何人かの専門家に送ったが・・・・・。全く反応なし…であった。そこでアマゾンを通してE出版を試みると、あっさりできてしまった。今でも私の名前を入れるとその本が出てきて、数ドルでキンドル版をダウンロードできる。しかしどれだけ読まれたかは調べようもない。

まとめ
さてこの長い論考もまとめに入らなくてはならない。企画者の期待にどの程度沿うことが出来たかわからない。しかし著書を作るということについて私が思っていることの一端は伝えることが出来たと思っている。私の主張をまとめるならば、自己表現と言う目的のためには、著述というのはリスクの少ない、とても有意義な手段だという事である。元手をかけて建物を用意し、内装も整えて始める事業は、失敗した場合には多大な借金を背負うことになる。殆んど元手がかからない株の売買なども、一歩間違うとものすごい損失を背負うことになる。あるいは自分の事業の従業員に人身事故などが起きた場合は、まさに取り返しのつかないことになる。ところが本を書くことにはその種のリスクはない。最悪は初版が何百冊と裁断の憂き目にあうことくらいだが、痛くも痒くもない、という人もいるだろう。(出版社には申し訳ないが。)ただしおそらく出版には我慢強さが必要かもしれない。著作はゆっくりとレンガを積み上げながら建物を建てていくようなものだ。幸い肉体労働的な部分はない。特にワープロの出現とともに、原稿用紙の束を抱えて喫茶店をいくつか渡り歩く、という様な昔の物書きの姿はもう見られない。という事で私にとってはこれほど楽しいことはない。これは仕事と同時に全くのレクリエーションと言ってもいいかもしれない。仕事の合間に人は山に登ったり、旅行に行ったり、ゲームを楽しんだりするかもしれないが、そこで味わうことのできる快適さの質は、モノを書くという事でほとんど味わえてしまうのである。しかし物書きの家族はとても味気ない思いをするかもしれない。一日中ワープロに向かっていても、「これも仕事だ」とか言われると文句をつけるのも難しいだろう。何しろ一日ゲーム三昧、というのと違い、家族から見たらとても楽しめないような文章作りをしているのだから、何も言えなくなるだろう。それに微々たるものとは言え印税が入ってくるとしたら、そして若干ではあるがキャリアーアップにもつながるとしたら、もっと文句が言えなくなる。私としてはそれにしっかり甘えているというところもある。という事は家族に感謝、という事になるだろう。