2019年6月30日日曜日

解離への誤解 推敲 6


しかしそれでも現在でも「ヒステリー」という言葉は使われるのだ。例えば次のような使われ方を目にしたことがある。
最近仕事に行けないという若い新入社員の男性。上司の指導の理不尽さを訴え、職場のブラック気質について話し、仕事をしばらく休むためにうつ病の診断書を書いてほしいという。しかし診察した様子ではその男性からは抑うつ的な印象は受けず、むしろ自分の思いを通そうとしているように思える。その医師はこうつぶやく。「うつ、というよりはヒステリーだな…。」

このような時に用いられるヒステリーは解離性障害とは無関係で、むしろ患者自身のある種のスタンスないしは態度をさしている。ただしそれはその患者に固有の性質というよりは、それを周囲がどう受け取るかを言い表している。すなわちその人が疾病により何らかの利得を得るという意図、すなわち「疾病利得」の存在を感じさせるという意味だ。ここでトラウマ神経症が生まれるまでの経緯を、すなわち100年前のことを思い出そう。トラウマは症状の発生には触媒的な意味を与えるだけであり、そこには「願望複合体 wish complex が出来上がるのだと当時の臨床家は考えた。そしてそのことがこの疾病を呈する患者の爆発的な増大ないしは流行を引き起こすことが懸念されたのである。
現在の見地からは戦闘体験や自然災害その他のトラウマにより人が精神を病む可能性があるということ、そしてそれはその他の身体、精神疾患と同様にケアや賠償を必要としていることは識者の間で十分受け入れられていることだ。しかしそれでも上の例に見られた「ヒステリー」という呼び方には治療者側の同様の疑いが込められている。少し話を広げるならば、同様の傾向は現代の社会保障制度が整備されつつあるにもかかわらず存在し続ける。生活保護の制度についても同じことが言えるかもしれない。働けない人の経済的な援助を公的な機関が行うという概念は、それが成立するためには社会の成熟が必要となる。「ただ働きたくないだけの人がそれを悪用するのではないか?」という声を凌駕するだけの良識ある人々の声が反映される必要があるからである。
以上をまとめるならば、解離に対する誤解の原因は以下のいくつかの項目に整理することが出来よう。
1. それが疾病利得を伴うものとの疑い。
2. 心が複数存在するという事そのものへの信じがたさ。
 その結果として本稿の冒頭のクライエントのような体験が生じたと考えることが出来よう。ここで誤解を避けるために筆者自身の立場を明らかにしておこう。私は精神疾患において「疾病利得」が存在しないという立場とは異なる。私はおそらく疾病利得と呼ばれるものはあらゆる疾患に関与していると考える。寒い朝学校に行くのが少し億劫な時、熱を出して休みの電話を入れて温かい布団にいることでどこか安心した部分を感じる人はいるだろう。私たちが体験するあらゆることに何らかのトレードオフ、差し引きが存在する以上、疾病利得は必ず存在する。問題はそれが主たる原因で精神、身体症状が生じやすいという、私たちが持ちがちな考えはどこまで信憑性があるか、という事だ。そしてトラウマ神経症の概念が成立するまでにかかった途方もない年月を考える場合、「病気ではなくてワガママだ」と考える事がいかに私たちにとって気軽で容易なのか、ということを反省しなくてはならない。
すでに論じたように、かつてビスマルク政権が事故による精神的な後遺症にも賠償を与える法律を成立させたことで大論争が生じ、賠償を求めて症状を示す患者が急増することへの懸念が高まったが、実際には事故保険請求で精神症状が問題となる事例は12パーセントに過ぎなかったという歴史がある。このような歴史が示しているのは、疾病利得が存在しないことではなく、それがいかに過大評価されがちであるかという事である。そしてその結果として解離性障害、転換性障害全体があたかも詐病や疾病利得を求めて誇張された症状の表し方をしているかのように、一律に見なされてしまうという傾向があり、おそらくその傾向は現代社会においては依然として生じているという事である。
一つの例として某先生の「『心の傷』は言ったもん勝ち」 (〇〇新書 2008) を例にしてみよう。要するに現代社会は「心に傷を受けた」と言ってしまえば、あとはやりたい放題という状態であるという。そしてうつ病セクハラパワハラ医療裁判痴漢事件などを例にあげて、被害者が優遇されすぎてはいないか、と主張する。このような声がもし蔓延した場合は、ドイツで一世紀前に起きた動きが形を変えて(望むべくは小規模な形で)これからも繰り返されていくことを暗示しているのではないだろうか。