●解離ケースの治療の普及に向けて
解離の治療に関する最新の、あるいは将来に向けてのテーマについて論じるのが本稿の趣旨である。確かに解離の臨床はいまだに「未開拓」の域を出ていないのではないかと感じることがある。私はこれを決して誇張して言っているつもりはない。それは解離性障害の外来や入院治療の場で現実に露呈していることだ。それらの現状を見る限り、解離はいまだに多くの誤解を受け、おそらくこれからも当分受け続けるであろう。「トラウマ臨床の明日」という本特集のテーマに沿って書かれる本稿で、私はきわめてペシミスティックな見解を述べる事になりそうだ。ただし私は「そのような誤解をなくしていかなくてはならない」という論調で書くつもりはない。むしろ「解離が誤解を受けるという宿命は何に由来するのか?」について改めて考えてみたいのだ。
まずある臨床場面を描いてみる。
私のクライエントAさんは30代前半の女性であり、派遣社員であるが、一箇所での雇用がなかなか安定しない。Aさんは複数の人格を有し、時々人格交代が起きて暴れたり、幼児のように振る舞ったりすることがあり、そのために仕事を継続することにかなりの支障をきたしているのだ。そのAさんは常に一つの懸念を抱えている。それは「自分がDIDの演技をしていて、そのために周囲に迷惑をかけているのではないか」というものである。ある日Aさんは職場でのストレスから急激に抑うつ状態が悪化して自殺念慮が高まり、ある精神科単科のB病院の病棟に入院することになった。その病棟で彼女は数分間意識を失うというエピソードを何度か体験した。そしてその間は男性の人格が出て大声を上げたり、急に幼児のように振る舞ったりしたらしい。彼女はそのようなエピソードの後は目をつぶったまま固まった状態になり、徐々に意識をもとに戻していくというパターンを取るが、その時も次第に周囲の話し声が聞こえてくるようになり、意識を取り戻しつつあった。しかしその時Aさん彼女はかなりはっきりとある看護師の冷ややかな声を聞いたという。「笑っちゃうわね。あそこまでして周囲から気を惹きたいなんて。」リーダー格のその看護師の声に複数の看護師が同意する気配が感じられた。Aさんは深く傷つき、一刻も早くその病院を去ろうと考えたという。しかしそれではその病院を紹介してくれた医師に悪いという理由で数日間入院を続けたという。その後別の病院Cへの転院となったが、そこで担当の精神科医との間でこれまでとはまったく別の体験をしたという。そこのD医師は言ったという。「解離のことは勉強不足で分からないことばかりなので、いろいろ教えてくださいね。」そして病棟のスタッフはAさんがどのような状態のときにどう対処して欲しいかをAさん自身に尋ね、それを守ってくれたという。
AさんがB病院の病棟で受けた看護師からの「誤解」は、何に由来するのだろうか? B病院の病棟が解離性障害を有する患者を扱う経験が足りなかったからというのとも異なるだろう。事実B病院にはそれまでも解離の患者をお願いして、大きな問題は起きていなかったのである。それに比べてC病院ではむしろ解離の患者に慣れていなかったが、無難な対応が出来たようである。するとむしろ「誤解」は各々の精神科病棟を支配する文化や想定と関係している可能性があろう。
B病院の病棟におけるカルチャーは、おそらく解離の症状にある種の疾病利得を想定し、それが「他人(スタッフ)の注意を惹く」という目標を達成しようと意図されたものとみる傾向を有するのだろう。その意味でB病院の病棟の看護師達の間で起きていた会話は容易に想像できる。それは「解離の症状にいちいちまともに対応していると患者を甘やかすことになる」という類のものであろうし、私は実際にそのような会話が聞かれる現場に居合わせたこともある。
もちろん解離性障害以外にも疾病利得が疑われる傾向のある精神疾患はいくつもある。最近の「新型うつ病」などはその典型かもしれない。しかし本稿で扱う解離性障害は、その種の理解やそれに伴う誤解が顕著に表れやすい障害と見なすことが出来る。
この誤解はいわば長い歴史を担っているといえるが、本稿ではそれを以下の二つの観点から考えたい。一つはトラウマに関与した精神障害そのものに向けられた誤解の歴史であり、もう一つは特にヒステリーないしは解離性障害に向けられた誤解の歴史である。
トラウマ関連障害への誤解の歴史
解離性障害を含めたトラウマ関連の精神障害一般は、それが正式に精神疾患と見なされるまでに多くの時間を要した。最初はその存在が否認ないし無視されることから始まったということができる。
マーク・ミカーリ、ポール・レルナー (編集) 、金吉晴(訳)(2017) トラウマの過去 みすず書房、2017年(Mark S Micale, Paul Lerner, Charles Rosenberg eds. (2001)
Traumatic Pasts: History, Psychiatry, and Trauma in the Modern Age, 1870-1930) Cambridge University Press.
19世紀の後半は、技術的な近代化と共にその途方もないエネルギーによる被害、特に鉄道災害が、身体的精神的な障害をもたらす可能性が注目されるようになった。そしてドイツの精神科医Hermann Oppenheimは鉄道事故により中枢神経に目に見えないような器質的な影響があった可能性を考え、トラウマ神経症の概念を提出したが(Oppenheim, 1889)、彼は同時に精神的な部分についても注目していた。同じ時代にパリのJ-M. Charcot はこれをヒステリーと同類と考えていたが、Oppenheim はそれとトラウマ神経症を分けるべきだと考えた。ただしOppenheimはその後徐々にベルリン大学における居場所を無くし、ドイツ精神医学の世界においても多くの批判にさらされることになった(ミカーリ、2017)。それは1889年にビスマルク政権が事故による精神的な後遺症にも賠償を与えるという法律を成立させたことに端を発した。それをきっかけに、賠償を求めて症状を示す患者が急増することへの懸念が高まり、「年金神経症pension neurosis」という用語さえ現れた。トラウマ神経症概念に反対する急先鋒が精神科医Alfred Hocheであり、彼はトラウマは症状の発生には触媒的な意味を与えるだけであり、それにより願望複合体wish complex が出来上がり「神経伝染病nervous epidemic」が生じると論じた。そして1890年のベルリンでの国際医学界ではOppenheimは集中砲火を浴びることとなり、結局戦争被害者への賠償を定めた法律は1926年に覆されることとなった。そしてそれ以来ドイツ精神医学界では第一次大戦まではトラウマ神経症の概念は省みられず、代わってヒステリーの診断が用いられるようになったという。
このように前世紀の初期の段階では、鉄道事故や戦争により精神に障害をきたすという考えが精神医学において十分な理解を得るには至らなかった。それは疾病利得を求めた一種の詐病、ないしは「ヒステリ-」として扱われる傾向にあったのである。ただしこれらの動きは、男性にもヒステリーが存在するという考えを広めることには役立ったといえるだろう。なぜなら鉄道事故や戦争による被害に巻き込まれる可能性が高いのは成人男性だったからである。
この後数十年を要してDSM-Ⅲ(1980)においてようやくPTSD概念が登場したわけであるが、PTSDの三主徴となるフラッシュバック、回避麻痺、過覚醒を備えた外傷性障害の概念は、実はKraepelinの「驚愕神経症Schrtecke Neurosen」(1915) やKardinerの「戦争神経症」(1941)などの形で提案されていたということは注目すべきである。しかしその臨床的な重要性や治療的アプローチは精神科医の間で十分認知される事はなかった。その後米国では1950年代にDSM-Iにおいて「著名なストレス反応」が掲載されたが、これもPTSDのレベルには程遠かった。それは先述の三主徴が盛り込まれた包括的なトラウマ精神障害の概念とは言えなかっただけでなく、正常人が異常なストレスに対して見せる正常範囲の反応というニュアンスがあった。
1980年のDSM-ⅢにおけるPTSDの記載はある意味では時代の必然とも言えたが、そこには紆余曲折があり、退役軍人局のロビー活動やその他の偶発的な事情に後押しされてようやく実現したとされる(金、2012) 。この様に見ると、トラウマ性精神障害の概念が「疾病利得」に基づくものという誤解をようやく払拭し得たのは、比較的最近のことと言えよう。そしてその誤解は実は現代でも全く姿を消したわけではない。
金吉晴 (2012) PTSDの概念とDSM-5に向けて 精神神経誌 114 第9号 1031-1036.
Kardiner, A (1941) the Traumatic Neuroses of War. National Research Council, Washington.
Kraepelin, E.; (1915) Psychogene Erkrankungen. Ein Lehrbuch fur
Studierende und Arzte, achten Auflage, Verlag non Johan Ambrosius Barth,
Leipzig, 1915. (遠藤みどり訳:災害精神病、心因性疾患とヒステリー みすず書房、東京、1987.)