2019年6月23日日曜日

関係性理論 仕切りなおし 2


弁証法的な心の在り方の背景にある「揺らぎ」について

このような心の働きを弁証法としてとらえることについては、それを一種の知性化と見なすことではないかという批判もあるだろう。しかしこれはおそらく私たちの心が基本的にもつ性質であり、それについてのなんらかの呼び方が必要なのである。北山修が最近論じる「いい加減さ」もまさにそのような性質を持っているのだ。そして私はこれを「揺らぎ」としてとらえることにしている。この「揺らぎ」とは、心が二つの方向性のあいだを常に彷徨うという事である。一方では世界を感情的、直感的にとらえ、それに基づいて判断を下し行動しようとする傾向であり、Hoffman が「自発性」と呼んだ部分である。そしてもう一方は、自発性により生じる危険から身を守り、従来続けていたような保守的、因習的で安全なやり方へと回帰しようとする傾向であり、Hoffman の言う「儀式的」な部分である。私たちの心はこのような二つの傾向の間を常に揺れ動いているというところがある。そのうちのどちらかに偏ってしまっても、私たちの心は自由な動きを取り戻すことが出来ないのだ。
この種の揺らぎについては実は数多くの論者が語っているが、一つの例としてDaniel Kahnemanの二つの思考モードの研究がある。彼は自動的に高速で働く直感的なシステム1と、遅く緻密な思考としてのシステム2を区別する。システム1は瞬間的に危険を察知したり、相手の表情を読み取ったりするという風に、日常の活動では主にシステム1が活躍している。システム1はある種の安易な直観に頼っており、それにより多くのバイアスが生じる。これがいわゆる「ヒューリスティクス」である。そしてもう一方のシステム2は熟考型で、合理的、論理的な思考ができるが認知的な負荷もかかる。そのために人間は無意識のうちに、できるだけ軽いシステム1でさまざまな判断を行おうとするのだ。
Kahneman, D. (2012) Thinking, Fast and Slow. Penguin. (ダニエル カーネマン , 村井 章子訳、『ファスト&スロー』、早川書房、2014.)


儀式と自発性の弁証法と精神分析

私がHoffman の説く心の弁証法的な在り方を応用する上で一番有用だと思うのが、治療関係のあり方である。治療のあり方を考える際にはまず、「治療者はいかにあるべきか」が問われるわけであるが、それは精神分析においては特に際立っていると言える。それは精神分析を創始した時点でフロイトがいくつかの基本原則を掲げたことに端を発している。それらの原則とは匿名性、禁欲規則、受身性、中立性などと呼ばれている。フロイトは「治療者はこのように振舞うべきだ」という原則を打ち立てたわけであるが、残念ながらこれらはトーンとしては「~であってはならない」「~してはならない」という否定形で述べられていたことが特徴であった。すなわちフロイトの治療原則に従う限りは「治療者は自分の個人的な情報を患者に伝えてはなりません。また患者を満足させてはなりません。そして自分の価値観を押し付けてはいけません。」という形で治療者を外から縛っているのである。これでは先ほどの儀式と自発性の弁証法においては「儀式的」な部分のみが強調されていることになってしまう。ところが実際に生きた人間が行う治療は程度の差こそあれ、別の側面を必然的に含んでいることになる。それは「治療者は自分を積極的にそこに関与させたくなるし、患者を援助したり満足感を与えたくなるし、時には自分の価値観を表明したくなることがある」という側面であり、この両者の間を揺らぐのが治療者の本来的な在り方なのである。フロイトは少なくとも自分自身の治療実践においてそれを体現していたと伝えられている(Lynn, Vaillant, 1998)。彼は立派に治療者として「揺らいで」いたのである。しかしフロイトの著作を読み、精神分析の実践を行う上での糧とする人々にとっては、フロイトがゆらぎや弁証法の一方の極しか書き表していないという点への認識はきわめて薄いようである。このことをさらに考察する上で、私はHoffman の「儀式と自発性」の弁証法についてさらに検討を加えたい。

Lynn, D,J., Vaillant, GE. (1998) Anonymity, Neutrality, and Confidentiality in the Actual Methods
of Sigmund Freud: A Review of 43 Cases, 1907–1939. Am J Psychiatry 155:163171.

Hoffman の弁証法の不足部分

ところで以上に考察したHoffman の「儀式と自発性」の弁証法に、私はひとつ補足したい点がある。それはこの弁証法が実は非対称性を有していると考えるべきであるということだ。儀式性と自発性はそれが対象性を有し、治療者はその間で適切なさじ加減を求めるべきだというのがHoffman の真意であるならば、私は実はこの弁証法は自発性の極に傾いた、非対称的なものであるべきだという考えを述べたい。平易な言葉で言い換えるなら、治療者がその仕事を自発的に選択し、生きがいを感じつつ行っているとしたら、それは必然的に自発性が優位になりつつ、そこに儀式性がブレーキをかけるという関係となる筈であるし、それがまさに生きた治療関係と言うべきものであるのだ。
この議論を進めるにあたっては、「ウォーコップ-安永」の理論を援用する必要がある(安永, 1987)。安永浩は1970年代に「ファントム空間論」を発表した精神病理学者かつ精神科医であったが、彼は英国の哲学者O.S.Wauchopeの「パターン pattern 」の理論を解説し展開したことで知られる。「パターン」とは様々なカテゴリー対であり、Wauchope自身による定義では、「カントが自我に適応した言葉を用いて言えば、統一における差異、差異における統一difference in unity and unity in difference である。ひとつのパターンとは、諸部分を持つ一つの全体、その全体と等価なる諸部分である a whole having parts, the parts equaling the whole」(深瀬訳,P17、安永による訂正が施されている、安永、P11)とされる。そしれそれ以外にも「質-量」などがそのパターンと考えられるが、この両方は対称ではなく、そもそも全体とか質とかがない限り、それは体験として成立しないという。すなわち左の項はそれのみで理解でき、右の項は「それでないもの」としてのみ理解可能であるが、その逆は成立しない。
例としてWauchope, 安永らが示す「生きた挙動-死・回避の挙動」というパターンを考える。生きた挙動living behavior は生命を宿したあらゆる生物が見せる躍動であり自発性である。それに比べて死・回避の挙動 death-avoiding behavior は不快や不安、究極の死を回避するために行う行動である。前者は生きている生命そのものを見ればわかるとおりであり、私たちが心地よい環境で何の不安もなく心や体を開放した場合に体験される快楽を伴ったものである。他方死・回避運動は、生きた行動が突き当たり、そのまま続けていたら死に向かうという、やむにやまれぬ状況でそれを回避するという苦痛な行動である。すなわち後者は前者の否定としてのみ体験されるが、逆に前者は後者の否定として体験されるわけではない。その意味でWauchope, 安永はこのパターンの両項目の間に方向性、不可逆性を想定しているのである。
  
Wauchope, OS (1948) Deviation Into Sense. London: Faber & Faber. (深瀬基寛訳.ものの考え方合理性への逸脱. 講談社学術文庫,1984) 
安永浩 (1987) 精神の幾何学 叢書・精神の科学 1 岩波書店