関係性のパラダイムが問い直しているのは、何だろうか? もちろん識者により大きく意見は異なるだろう。なぜなら関係精神分析についての正式な定義などあってないようなものだからである。しかしもし私がその本質を描写するとしたら、従来の精神分析理論に見られる本質主義であり、解釈至上主義へ向けられたものである。それは精神分析をある種の本質探求と見なすことで失われてきたものを問い直すという姿勢であり、使命である。
ただしこのことは私たちが、ひとつの悩ましいジレンマに直面していることを意味する。精神分析家の役割を無意識に潜む本質的な内容の探求として捉えるという方針は、フロイトの創始した精神分析理論の中核をなしているからだ。すなわちそれを問い直すことは、精神分析の出自そのものを否定することにつながりかねない。しかし関係精神分析がその危険を冒してまで解釈主義の代わりに提案するのは何なのであろうか? それはある種の心のやり取りを患者とともに体験することである。あるいはそのような出会いを提供することである。そしてそのやり取りのベースとなるような弁証法的な心の持ち方を提案することである。そしてそこでの交流は基本的には本質追求とは異質のものなのである。そのやり取りが含む関係性に関する理論は、愛着理論や間主観性理論、一部の対象関係論、フェミニズムなどと共鳴しあいながら大きな理論的な渦を形成しつつあり、もはやその動きを止めることはできない。
関係性をめぐる議論は様々な文脈を含み、とても全体を俯瞰することは困難に思える。しかしその中で Irwin
Hoffman の提示した理論は、様々な理論を理解するためのメタ理論としての意味合いを持つ。それは心が必然的にある種の弁証法的な動きをすることに、その健康度や創造性が存在するという見方である。
私は Hoffman の提唱する、いわば心のあり方の基本形としての「弁証法的構成主義」の理論から多くを学んだ。それは心の働きに関するある基本原則ないしは公式のようなものを提示している。心のあり方を数式や公式で示すような試みはもちろん多くの反発を招きかねない。しかし同様の試みはウォーコップにヒントを得た今は亡き安永浩の理論、ドイツ精神病理学の流れを汲んだ森山公夫や内沼幸雄の理論にも見られた。そもそもフロイトも数多くの心の図式化、公式化を試みたことは私たちがよく知るとおりである。
Hoffman の「弁証法的構成主義」は、実は現在の自然科学でメジャーとなりつつある複雑性理論とも深いつながりを有する。そのなかでも「揺らぎ」の概念は心の本来のあり方を巧みに捉えるとともに、Hoffman の主張を理解するうえでの助けとなるだろう。Hoffman の理論の精神分析への貢献は、対人関係のあり方を、よりリアリティを伴った形で描写する方法を与えてくれたことである。患者と治療者は互いに相手を計り知れない他者であると同時に、自分と同じ人間すなわち内的対象として体験するという弁証法が存在する。また分析家は畏怖すべき権威者である一方で、患者と同様に弱さと死すべき運命を担った存在として弁証法的に患者に体験される運命にある。それらの弁証法を維持することがいかに難しいか、いかに硬直した体験に私たちが日常的に浸っているかを知ることは、心の病理を知る上でのひとつの重要な決め手となるのである。
二重性を帯びた心の在り方 - 同一化の不思議
私たちの心の理解が示しているのは、ある種の心の二重性であり、パラドックスを包み込むあり方である。これは様々な心の営みに関係しているが、ここで一つの例として同一化を取り上げよう。まず目の前の患者の話を聞く私たちの心の動きを例にとろう。患者は一児の母親で、彼女の幼い子供が病に伏しているという身の上を語る。それを聞いている治療者は程度の差こそあれ、その母親に同一化し、不安やいたたまれなさを感じるだろう。やがて時間が来て治療者はセッションを終えることになる。そしてその心の痛みを全面的に背負ったままで次の患者を迎えることは出来ない以上、「これは自分に起きているわけではない」という、ある種の「脱同一化」を行って、言わば気持ちを切り替えて次の患者の話を聞くのであろう。ここに見られる同一化と脱同一化の二相は、そのどちらも重要であり、その両方をある意味では同時に行うことが私たちに要求されるだろう。これは心の二重性の一つの典型的なあり方であると私は考える。
あるいは私たちがパートナーに同一化し、一緒になりたいという気持ちを持つという場合はどうだろうか? 自分はこの人と一緒、この人の気持ちはとてもよくわかると思うかもしれないが、同時に私は私であり、私自身の気持ちや考え方があり、私は基本的には一人で生きていく存在である、と思う部分があるはずだ。そして同様のことはそのパートナーにも言え、だからこそ二人は大人同士の付き合いが出来るわけである。とすれば、同一化をめぐる心の二重性はいわば私たちの達成目標と考えることもできよう。
さらには私たちにとってなじみ深いPS ポジションとD ポジションの例をとってもいい。対象を good と bad にスプリットするという私たちの心の働きは、決して幼少時の原初的な心の働きにはとどまらない。人をある瞬間には敵ないしは味方という色付けをして判断し(PS ポジション)、次の瞬間には両方を併せ持った存在と見なす(D ポジション)と心の働きは、私たちが頻繁に体験していることではないか。この場合のD ポジションは PS に対立するもの、というよりは心の二重性を反映したものと考えることができるであろう。