この後数十年を要してDSM-Ⅲ(1980)においてようやくPTSD概念が登場したわけであるが、PTSDの三主徴となるフラッシュバック、回避麻痺、過覚醒を備えた外傷性障害の概念は、実はKraepelin の「驚愕神経症 Schrtecke Neurosen」(1915) や Kardinerの「戦争神経症」(1941)などの形で提案されていた。しかしその臨床的な重要性や治療的アプローチは精神科医の間で十分認知されてはいなかった。その後米国では1950年代にDSM-I において「著名なストレス反応」が掲載されたが、これもPTSDとは似て非なるものであった。それは先述の三主徴が盛り込まれた包括的なトラウマ精神障害の概念とは言えなかっただけでなく、正常人の異常なストレスに対する反応と理解されていた。その点が正常範囲も含みうるストレスに対する病的な反応としてのPTSDとは大きく異なっていたのである。
しかしある意味では時代の必然とも考えられるDSM-ⅢのPTSDの登場も、そこに至るには紆余曲折があり、退役軍人局のロビー活動やその他の偶発的な事情に後押しされてようやく実現したとされる(金、2012) 。この様に見ると、トラウマ性精神障害の概念が「疾病利得」に基づくものという誤解をようやく払拭し得たのは、比較的最近のことと言えよう。そしてその誤解は実は現代でも全く姿を消したわけではない。
誤解の由来 2 ヒステリー・解離の研究の歴史から
トラウマ関連障害の中でも、すでに述べたPTSDの場合、自律神経系の症状を含む様々な生物学的な所見を伴う為に、それが一種の詐病扱いをされる危険性はそれだけ低い。しかし同じトラウマ関連障害でも解離性障害はそれに対する誤解を拭い去ることがそれだけ難しいと言える。いわゆるヒステリーとは現在の解離性障害、転換性障害に相当するが、そのヒステリーの歴史は、さらに誤謬に満ちたものであり、それはある意味では現在においても存在する可能性が高いことは、本稿の冒頭で示した通りである。そしてその誤解は特に解離性同一性障害において顕著であると思える。その理由の一つとしては、心が一人の中に複数存在するという可能性を受け入れないという立場に由来するものである。
力動精神医学の発展の歴史を詳述した「無意識の発見」において、Ellenberger は心はいくつかの部分により構成されているという考えをポリサイキズム Polypsycism 多心主義として紹介している(Ellenberger, 1970)。18世紀において Mesmer の唱えた動物磁気説やそれに伴う手技において人々を驚かせたのは、磁気睡眠magnetic sleep を誘導すると、それまで姿を現したことのないパーソナリティが出現することがあることだった。19世紀の精神医学界においてはこの新たな人格の存在は極めて強い関心を集めた。
このポリサイキズムという概念を最初に唱えた Durand de Gros の概念はかなり大胆なものであったという。彼は人の脳は解剖学的にいくつかのセグメントに分かれ、それぞれが自我を持ち、その自我は独自の記憶を持ち、知覚し、複雑な精神作用を行うといった。しかし普通は「主自我 ego in chief」がそれ以外を統率するが、催眠下ではほかの自我にコンタクトを取れるようになるという。Janet はこの立場を守り解離の理論を打ち立てたが、Freud は早々と解離の理論を棄却し、いわば一つの心の中にポリサイキズムを想定する形で、意識、無意識、前意識からなる局所論モデルを提唱した。その後精神分析の隆盛とともに解離や多重人格、ポリサイキズムへの関心は急速に失われていった。金吉晴 (2012) PTSDの概念とDSM-5に向けて 精神神経誌 114 第9号 1031-1036.
Kardiner, A (1941) the Traumatic Neuroses of War. National Research Council, Washington.Kraepelin, E.; (1915) Psychogene Erkrankungen. Ein Lehrbuch fur Studierende und Arzte, achten Auflage, Verlag non Johan Ambrosius Barth, Leipzig, 1915. (遠藤みどり訳:災害精神病、心因性疾患とヒステリー みすず書房、東京、1987.)Ellenberger, H.F. (1970): The discovery of Consciousness; the history and evolution of dynamic psychiatry; Basic Books, New York 木村・中井監訳 (1980): 無意識の発見 上 - 力動精神医学発達史. 弘文堂、東京