2019年6月15日土曜日

書くことと精神分析 推敲 2


自験例

私はかなり前に、「精神分析における恥」という論文を書きました。これは単著であり、特に後に書籍の形に発展させる予定はありませんでした。ただし本を書きたいという気持ちは当時から持っていたことは確かです。しかしどうやって書いたらいいか見当もつきませんでした。精神科医として臨床を始めて10年足らず経ち、いくつか興味のあるテーマが見つかってはいましたが、海外留学中で特に論文指導をしてくれる教官もいなかったですし、そもそも査読付きの単著論文を書くことにまだ数少ない成功体験しか持っていなかったのです。それまで投稿をしては不受理という経験も何度かは持っていました。どのように論文を書けば査読を経て受理されるレベルまで持っていけるのか、不受理の場合に何がいけなかったのか、等についての理解が不十分でした。この「精神分析における恥」も、受理されるはずだという確たる自信もありませんでした。しかし結果的にこの論文は上で述べた意味での「種論文」になったのです。それは学位論文の主要テーマとなり、のちの著作にも発展しました。そこでこの論文の発想から少しお話ししましょう。
そのころ米国で会い始めたある患者さんが対人恐怖気味の方でした。三十代半ば、自分に自信がなくて恥じる気持ちが強く、それに押しつぶされるような気持ちで人に心を開けないという方でした。私はそのころ精神分析のトレーニングも受けていましたが、精神分析では恥ずかしい、恥じる、という感情を論じたものが伝統としては非常に少なく、むしろ怒りや罪悪感がテーマとして扱われる傾向にあるという背景がありました。そこでこの症例を提示しつつ「精神分析における恥」というテーマについて論文にしてみようと考えたのです。
このままでは「精神分析における恥」が種(たね)論文になる要件はあまりそろっていなかったことになりますが、ここには一つの重要な要素がありました。それは「どうして精神分析では恥を扱わないんだろう?」という疑問が、かなり私にとって本質的な問いであり、それをほかの患者さんとも体験しましたし、また私自身の異文化体験とも深く関連していました。つまりその論文のモティーフが大きなインパクトを有し、臨床を含めた人生のいろいろな場面で遭遇するような問題であるならば、これは種論文となる可能性が高くなるのです。
以上のことは、種論文にならないような、ほかの論文と比べてみるとより分かりやすいでしょう。たとえばある論文や書籍に書かれたある理論について、その一部に異論を持ち、それをテーマにした論文を書いたとします。それはそのテーマでおそらく完結してしまい、それ以上の発展性を持たないでしょう。あまり根幹部分の問いとは言えず、種論文にはなり得ないからです。またある一人の患者さんとの特殊で興味深い体験を持ったとしたら、それは症例報告としては意味を持つでしょうが、それで完結していれば種論文とはなりません。ただしその症例報告から出発し、これまではあまり注目されてはいないものの、長い間見過ごされていた一連の疾患が再発見されるきっかけとなる報告なら、これは図らずも鉱脈を掘り当てたことになり、立派な種論文に化けることもあるでしょう。
さて私の場合は精神分析における恥」は単著論文として出発したものの、それを書き上げる前から私の中には同時に様々な関連するテーマが浮かんでいました。「どうして恥の感情は精神分析ではあまり語られなかったんだろう?」
「それに比べて精神分析で主人公として扱われる罪悪感というのは、恥の感情とどのような関係にあるのだろう?」 
「恥の病理としての対人恐怖は、精神分析の対象にならなかったのか?」
「恥と感情と同時に患者が表明することが多い怒りの感情はどのように扱うべきか?」
「コフートの自己愛の理論と恥とは関連があるのではないか?」 
「恥の議論と自己愛のテーマはどのように関連するのか?」・・・
これらのテーマがいろいろ頭の中にわいてきて、実はそれぞれが後に独立した論文として書かれるようになったわけです。その意味で私の最初の論文は「種論文」の役割を果たしていたということになりました。思えばずいぶん運がよかったことになります。