2019年6月26日水曜日

AIと精神療法 補遺


補遺)
さて以上の論考をとりあえず書いた後に、いくつかの思考の素材が加わった。それらをもとに少し書き換えが必要らしい。思考の素材は3っつある。
1.とりあえず原稿を書き終えた段階で、だいぶモヤモヤ感が残った。何かがおかしいような気がする。私は常に学生に、精神療法には治療者と患者の関係性のファクターが根幹にある、と説明してきた。どのような治療的なテクニックを用いても、そこに人間としてのふれあいがなければ意味がない、という様な趣旨である。そして私が自分がその流れに属していると考えている「関係精神分析」の流れでは、その点が最も強調されるのである。では関係性とは何かといえば、他者、たとえば治療者と気持ちが通じ合い、お互いに分かり合っているという感覚が生まれ、お互いに対する敬意の感情が生まれるような状態である。そしてそこで前提となるのはやはり生きた人間同士の心のふれあいなのである。それなのに治療者が「人間でない」のでは話にならないではないか。ところが私の論考の結論は「AIセラピストも捨てたもんじゃない!」になってしまったのである。どこかで理論の組み立て方を誤ったのではないか? 
ただこのように書くと次のような論駁の声が頭の中に聞こえる。「では相手が人間ならそれでいいのか?」それについては即座に「いや、そういうわけではない」という答えが出てくる。私たちは「独りでいると寂しいが、彼(女)といるともっと寂しい」という体験を実にたくさん聞くのである。いわゆる「在の不在」の議論である。人といると癒される、分かり合える、という考えや主張は実に安易であったり誇張であったり、理想主義的であることも確かなのだ。人間結局は一人である。他者との関係は多くの場合お互いを豊かなものにする形で成立するとしても、それは一時的であり、やがては必ず別れが来る。「関係性のファクター」とは他者との継続的な関係ではなく、ある種の断続的な出会いであり、体験の共有である。それは生後の養育者との連続性のある愛着関係において形成されるべきものの、部分的な修復や再構築の意味を含んではいても、治療者やパートナーにより再構築されるものではない。むしろ個人が治療者やパートナーとの関わりを媒介にして自分自身で育て直し、ないしは取り戻すものであろう。
すると関係性のファクターが提供される治療関係についての新たな見方が可能になる。それは相互理解を基礎とし、決め付けや差別的な発言や加害行為という阻害因子となるような要素を排した関係性である。そして生身の人間は実はこれらを提供することのできる第一の候補者でありながら、同時に自己愛や悪意や嫉妬を併せ持つという宿命がある。その点AIは少なくとも人間であることによる加害性はない筈であり、それによるアドバンテージを有していると考えられるのである。
2.私は最近 NHKで再放送された「BS世界のドキュメンタリー『ロボットのお悩み相談室』という番組を見た。最初の放映は20181219日(水)である。イギリスの Channel 4 uses が2017年に制作しThe Robot Will See You Now」という番組の紹介という形を取る。これは驚くべき内容で、私のこの論文全体の論旨を変えかねない内容であった。ジェスというAIが悩み相談に現れた人々の問題をどんどん解決していく。高さ数十センチでディスプレイに表情豊かに動く目を映し出すジェスは、機械的な声やぶしつけな質問をするものの、人間のカウンセラーに取って代わるほどの、あるいはそれをはるかに超えた働きをする。人間を超えた部分は、たとえば瞬時に相談者のプロフィールを検索し、SNS に投稿した内容を映し出して相談者の話の矛盾を暴いたり、相談者を嘘発見器にかけてその発言の真偽を即座に判定したりする点だ。そこで紹介されているエピソードを一つ紹介しよう。最初の相談者は息子二人と現れた夫婦である。明らかに恰幅のいい母親が、その肥満の原因について、ジェスから容赦ない質問を浴びせられる。そして家族に秘密でピザのデリバリーを頼んで過食をしていることがばらされる。しかし話はやがて浮気を繰り返して妻を悩ませている夫の問題に映り、彼女の過食はそのつらさを埋めるためのものだという事をジェスが指摘し、夫婦はお互いを信頼することを誓い合うことで幕になる。ジェスの素早い直面化、情報の収集、推論の展開などは見事の一語に尽きる。すでにこのようなAIが存在するならば、「AIにサイコセラピーは可能か?」への答えは「イエス」、という事になる。
 しかし実はこのジェスにはかなり「人工の手」が加わっているらしい。製作スタッフによるシナリオが出来ているらしいのだ。「らしい」というのはその点が番組の紹介の際に明示されず、それはchannel 4 のサイトに行っても同じだからだ。そのためか日本の視聴者の反応の多くは、「現在のAIがここまで進んでいるとは知らなかった!」 「すばらしい!」というものである。一方欧米での視聴者の反応は「これは一種のフェイクである。ロボットがどれだけのことが出来るかを大げさに誇張しているだけだ」という反応も目立つ。私は個人的には、番組の制作側が、ジェッスの振る舞いのどこまでがシナリオに沿ったものかを明示していないことは極めて重大な問題をはらむと考える。ジェスのずけずけと相手のプライバシーに入っていく様子や、個人データを暴露していく様子は倫理上の問題もはらみ、そして極めつけのうそ発見器の機能を果たすところなどは、現在の嘘発見器をめぐる現実とかけ離れている。
 しかしその上でこの番組が教えてくれたことは、簡単なディスプレイにいくつかのバリエーションを持った目の表情を映し、人の言葉を話させるだけでも、そこに人格を読み込むことなどいとも簡単に出来てしまいそうだという事だ。関係性のファクターを生身の人間でなくても成立したものと感じてしまうような特異な才能を人は持っているらしい。そしてジェスのようなセラピストが将来可能かという事に関しては、最終的には実現が可能であろうという事だ。ただしそこでジェスの果たす機能はおそらく非常に限定されたものから始まらなくてはならない。それは情報の収集、直面化を進めるという機能である。そしてその基本にあるのは、本論で示したフィードバックである。その上で治療的な判断を下したりアドバイスをするためにはあまりに膨大なデータが必要であり、またその種のアドバイスに正解など存在しないことが多い。AIにできることは、できるだけ良質のデータを提供し、その上で最後の判断を相談者にゆだねることである。
3.最近私は「拡張知能」という考えにもであった。現在ある論者が提唱しているのは、人とAIが対峙するのではなく、人がAIのアシストをいかに効率よく得、それにより自分自身の判断を下すか、という事である。AIはクライエントに関する情報を総合し、それをフィードバックとして提供する。その意味ではAIは私たちに対面するセラピストというよりは、アシスタントとして位置づけをされるべきであろうという事だ。これについて伊藤穰一という方が書いている。「新たな知性について語るとき、わたしたちは人間と機械の対立という図式から判断するのではなく、人間と機械を統合していくようなシステムを考えていくべきだ。ここではAIにとどまらず、さらに進んだ「拡張知能(extended intelligenceEIまたはXI)」という概念の話をしている。」(MACHINE 2019.06.15 SAT 19:30 「人工知能」は終わる。これからは「拡張知能」の時代がやってくる:伊藤穰一)
そう、AIは私たちが用いる道具と考えると、余計な期待や依存をしなくても済む。それは不十分な点があって当然なのだ。なぜなら道具はそれを使いこなす私たちにその有用性を大きく依存しているからだ。そしてそう考えると、私たちはAIがかしこくなり、セラピストとして使い道があるものにまで発展することを待つ必要はなくなる。AIは今の段階で、もうセラピスト的なアシスタントとして使うことが出来るのだ。ではどのように、であろうか? 実は私が想像したような使い方になるのだろう。セラピストを作ろうとしても、どうしてもアシスタントのようになってしまう理由がようやく分かった。そしてそれがどうもセラピストとしてはモヤモヤするような、生身の人間ではないことによる関係性の要素を書いた部分も含めた問題をはらむのは、当たり前のことだったのである。結局人間は一人で、他者を用いつつも一人で生きるものであるし、時々出会ってまた一人に戻って行くというのが一番気楽なのだ、という私の結論も案外悪くなかったのだろう。