さて本書が訴える幾つかのテーマについて考える。そのために彼女(ジェシカ・ベンジャミン)の人生を考える。どんな理論も、それを生み出したその人の背景を知らないと本当の意味で理解が出来ないだろう。しかし実は彼女のことは噂話程度しか知らない。そこでアメリカで出会ったあるフェミニストのことを思い出して、彼女について考えることにする。イイカゲンダ。彼女キャロル(仮名)は大変な気分屋だった。イライラしている時は、なかなか近寄りがたい。そしておそらく自己愛の問題があるのではないかと思う。彼女は看護師だが薬の処方をする資格のある ARNP という立場だった。ARNPとは「高度認定実践看護師 Advanced Registered Nurse Practitioner」で医師の指導のもとで処方が出来る、すごいナースだ。アメリカでは徐々にキャリアを積んで、さらに高い資格を目指すということが可能である。キャロルは野心家で、もちろん知的にも優れていたので、医師のもとでの仕事、ということに甘んじることに耐えられなかったのだ。それだけに彼女は大変医師との権力関係に敏感だった。ある時薬のセールスマンがクリニックにやって来て、医師だけに高価なパーカーのボールペンを配った。するとキャロルは大変な剣幕で、「あなたは医者と ARNP を差別するつもりなの!」とセールスマンにどなったのだ。彼もずいぶんおどろいだろうが、残念ながらボールペンは医師の数しか用意されていなかった。結局医者の一人(男性、私ではない。私は気がきかなかった。)が自分のボールペンを彼女に差し出して、彼女はご満悦だった。そのぐらいの女性はアメリカには結構いる。ただしベンジャミンがキャロルと違っていたのは、そのボールペンを受け取ったとしてもご満悦にはならなかったであろうことである。結局自分がその男性の医師のボールペンを奪ったことになり、被支配から支配に移っただけで、権力構造の存在は変わらないと感じたのだろう。そこで最終的に至るべき関係性は、相互承認であると気が付いたのだ。しかしこの相互承認の問題を彼女が延々と語り続けてもまだ語りたりないのは、おそらくこの権力構造は、もうそれが生じるのが自然のことであるように、常に起きてくるからだろう。いわば雑草のようなものだ。ほっておくと常に生えてくる。草むしりは永遠に続く。すっかり除草したと思っても忘れた頃にはまた生えてくるのである。これは差別の問題と考えてもいいだろう。差別心もまた同様の性質を持つ。
それにしてもキャロル、どうしているだろうか? 元気ならもう70を超えているはずだが、少しはやせただろうか? おっと。