二重性を帯びた心の在り方 - 同一化の不思議
私たちの心の理解が示しているのは、ある種の心の二重の在り方である。目の前の患者の話を聞く私たちの心の動きを考えよう。たとえば彼女は一児の母親で、その幼い子供が病に伏している。それを聞いている治療者はその母親の不安な気持ちにどの程度共感できるだろうか? 母親に同一化して悲しい気持ちになるだろう。彼は不安でいたたまれない気持ちにさえなるかもしれない。しかし同時に「これは自分に起きているわけではない」と切り離す部分を持つことで、時間が来たらその患者を送り出して、次の患者を迎えることが出来るだろう。
あるいはパートナーに同一化し、一緒になりたいという気持ちはどうだろうか? 自分はこの人と一緒、と思うかもしれないが、同時に私は私であり一人でやって行ける、と思う部分があって、そのパートナーとは大人同士の付き合いが成立するだろう。
あるいは私たちにとってなじみ深いPSポジションとDポジションの例をとってもいい。対象をgood badにスプリットするという私たちの心の働きは、決して幼少時の原初的な心の働きにはとどまらない。人をある瞬間には敵ないしは味方という色付けをして判断し(PSポジション)、次の瞬間には両方を併せ持った存在と見なす(Dポジション)ということは、私たちが常に行っていることである。
弁証法的な心の在り方の背景にある「揺らぎ」について
このような心の働きを弁証法としてとらえることには、それを一種の知性化と見なすことではないかという見方もあるだろう。しかしこれはおそらく私たちの心が基本的にもつ揺らぎの性質から来るものと考える。それは一方では世界を感情的、直感的、ヒューリスティックにとらえてそれに赴いて判断し行動しようとする、彼が「自発的」な部分と呼んだものであり、他方ではそれにより生じる危険から身を守り、従来続けていたような安全なやり方へと回帰しようとする、彼の言う「儀式的」な部分である。私たちの心はこのような二つの傾向の間を常に揺れ動いているというところがある。そのうちのどちらかに偏ってしまっても、私たちの心は自由な動きを取り戻すことが出来ないのだ。
この種の揺らぎについては実は数多くの論者が語っているが、一つの例としてダニエルカーネマンの二つの思考モードの研究がある。彼は自動的に高速で働く直感的なシステム1と、複雑な認知プロセスを経て働く遅い思考としてのシステム2を区別し、私たちの心は通常はほとんどシステム1によって成り立っているとする。しかしこれは多くのバイアスを含む。カーネマンの書には次のような点を力説するが、これはまるで自動思考の解説と同じような感じだ。(ちょっとあるサイトからコピペしたことを告白しよう。)
· 自動的かつ高速で機能する。
· 特定のパターンが感知された時に意図的に注意可能
· 反応や直感を訓練や専門技能で形成可能
· 観念の整合的なパターンを形成する
· 認知が容易だと真実を錯覚し警戒を解く
· 驚きの感覚により通常と異常を識別する
· 因果関係や意思の存在を推定したり発明する
· 両義性を無視し疑いを排除
· 信じたことを裏付けようとするバイアスがある(確証バ イアス)
· 感情的な印象で全てを評価する(ハロー効果)
· 手元の情報だけを重視し手元にない情報は無視(見たものが全て)
· いくつかの項目について日常的なモニタリングを行う
· 平均はできるが合計は出来ない
· 異なる単位のレベル合わせができる
· 意図する以上の情報処理を自動的に行なっている
· 難しい質問を簡単な質問に置き換えてしまう可能性がある
· 状態よりも変化に敏感
· 低い確率に過大な重みをつける
· 感応度の逓減を示す
· 利得よりも損失に強く反応する
· 関連する意思決定問題を個別で扱う
カーネマンさんは人間はシステム1に左右され、システム2が入るのは相当大変だ、というが、この両方の間を適度に揺らぐことが大事である。そして私が特に注意を喚起したいのは、臨床家は非常に多くの場合、2の方に傾いて、1を忘れるのである。