2019年5月12日日曜日

関係性理論へのラブコール ③


儀式と自発性の弁証法と精神分析

私が心の二重性という考えを応用する上で一番有用だと思うのが、治療関係のあり方である。治療のあり方を考える際にはまず、「治療者はいかにあるべきか」が問われるわけであるが、それは精神分析においては際立っていると言える。しかしその時点で、精神分析的な考え方は実は大きな誤謬を招きかけないのだ。それはおそらくフロイトに端を発した問題と言えるだろう。フロイトは精神分析の治療を行ううえでの原則を唱えた。それは匿名性、禁欲規則、受身性、中立性などと呼ばれている。治療者はこのように振舞うべきだという原則を打ち立てたわけであるが、これはある意味では儀式と自発性の弁証法にある種の優劣、ないしは方向性を含めてしまったということができるだろう。「治療には原則が必要です。でもそれだけでは十分ではありません。自発性、ないしは原則を越えるような何かもまた必要です」というわけであるが、そこには原則を守ることが前提ですというニュアンスが含まれることになる。矢印は、儀式性から自発性の方向に向かう。でもこれは人間の本来の生き方とは異なる。人間はそもそもやりたいことがあり、しかしそれによる不都合を防ぐために制限を加えなくてはならない。順番から言えば、「まず好きなようにやりましょう。でもそれが問題になるかもしれないので、規則も設けましょう。」という順番でないと楽しくはないのである。
この点でやはり優れているのが、ウォーコップ安永の図式である。彼らのパターンの概念、特に『生きる活動-死の回避活動』は、生きる活動の優先性を前提としている。生き生きとした活動は後者から始まってはいないのである。すなわち精神療法が生きたものであるためには、治療者も患者も言いたいこと、したいことの表現をまず優先することが前提となっていなくてはならないのだ。考えてみよう。私たちは人に話を聞いてほしい、人に話しかけたいという願望をごく自然にもつ。お互いに知っている仲間が一堂に会して、誰もおしゃべりをせずにシーンとなっていることなどあり得ないだろう。それは思春期になり対人緊張が強くなると人と距離を置きたい人も出てくるが、それ以前の幼い子供たちを知らないどうして一緒にしておくと、必ず一緒に遊びだす。精神療法も人と人が話すという自然な営みから発生して、それが特殊な役割を担うようになってきたのである。そこにはお互いが話したいことを話し、聞きたいことを聞くという原型があり、それがそのままにされた場合の様々な問題を防ぐように制限を加えられていく。それが構造なのだ。それに従えば自然と展開していくと考えたのがおそらくフロイトの誤解だったのであろう。
ホッフマンの弁証法の議論は儀式的な面と自発的な面を弁証法の両方の項目に据えることで、精神療法の原点に回帰することを促しているともいえるのである。