いい加減さの重要性
いい加減さについて論じるためには、その対極について考える必要があります。いい加減でない、ということは曖昧でない、ということ、白か黒かにはっきりスプリットされていることです。いわゆるスプリッティングです。そしていい加減さの意義について考える際にその前提にあるのが、私たちが物事をスプリットしやすい性質でしょう。スプリッティングが実は生きていく上で欠かせないことは言うまでもないでしょう。私たちは生きていくためには常に good と bad を分けなくてはならない。冷蔵庫に入っている賞味期限が微妙に切れている食材は、使うか捨てるかしなくてはならないのです。さもないとどんどん冷蔵庫に貯まって行ってしまいます。あるいは社会で生きていく上では敵と見方を分けなくてはなりません。
私たちはおそらく社会生活の中で、この人は信用しよう、この人とは距離を置こう、この人とはもう別れよう、などとかなりあれかそれかの判断をしています。もちろん人間は信用できるか、出来ないかの二種に峻別することはできません。ところが日々の生活はそこにかなり明確な○か×かを付けて生きています。それがメリハリというものですし、その種の決断はその人が社会生活を送るうえでむしろ必要とされている能力でもあります。
あるいはもう少し別の例で言えば、言葉を話す行為もそうです。ある思考が浮かんできたとき、それを言い表せるような言葉は沢山あり、どれもあまり差はないでしょう。その中でこれ!と選ぶことで決断をしていくことでしゃべることができます。「それはいただけない」という少し曖昧さを含んだ表現が出てこずに「それはアウトだと思います」が口から出てきてしまうかもしれない。でも口ごもって時間が過ぎてしまえば、生放送では放送事故になってしまいます。そしていくつかの選択肢の中から白黒をつけて選ぶという作業は、実は「いい加減さ」と結びついているのです。お分かりでしょうか。どちらが正解かわからない選択肢のうち、どちらかを選ぶためには、実はいい加減さが必要なのです。「どっちだって変わんないジャン」という軽さやこだわりのなさは実はきわめて大切な能力なのです。そしてその結果として時々あまり適切ではなかったり、言い間違いの部類に属する言葉を選んでしまいます。これは一種のノイズということになります。
ここで皆さんはひとつお気づきでしょう。問題はいい加減さはその加減に重要性があるということです。適度にいい加減、いい加減にいい加減、ということが実は決め手になるのです。いい加減にいい加減、というのが実はもっとも適切ないい加減さ、なのです。