最後に転換性障害はどうであろうか? 結論から言えば、この種の疾患の存在を認めるかどうかについて、現在の米国の精神医学の見解はきわめて慎重になっている。既に述べたようにDSM-Iではこの障害に関しては、症状が当人の葛藤を象徴し、そこには疾病利得が見られるという二つの特徴が掲げられていた。これらはその後どのように変化したのであろうか。1980年のDSM-Ⅲ(1980)では、転換性障害について以下のように記載している。「身体的な障害に一見みえるが、心理的な葛藤やニードの表現のように思われ、疾病利得の存在が特徴である。」すなわちここではDSM-Iでの二条件が繰り返される。しかし1994年のDSM-IVを読むと、これがちょうど過渡期であるということがわかる。記載は長く、言い訳がましいが、要約すると、「本疾患においては疾病利得ということが言われてきているが、その言葉により患者がわざと症状を示していると判断することには慎重になるべきである」とある。そして最後に最新のDSM-5
の転換性障害の記載を見てみる。ここでは転換性障害という言葉は残しておくが、記述的により正確で、きわめて客観的な表現も提案している。それが機能性神経症状症 functional neurological symptom disorder であり、すなわち「神経症状を呈しているが機能的な障害である」ということになる。ここで機能的という表現は、「器質的でない」という言い換えである。コンピューターのたとえでは、ハードウェアではなくソフトの問題だと言っているわけである。さらには症状における葛藤の象徴性についても触れていない。というよりはそもそも心理的ストレスがあるかどうかを問題にしていないのだ。(実際にはストレス因を伴うか、否かという特定項目がある。)これはよく考えれば「心因性」の条件にさえ該当していないことになる。あえて言えば「内因性」の疾患にちかい。原因はわからず、器質因もなく、ただ症状があらわれる、という意味ではDSM-5の規定する(ストレス因のない)転換性障害は内因性うつ病とあまり代わらないことになる。
さらにDSM-5には転換性障害を含む身体症状症に関連して重要な記載が加えられている。それは「これまでの診断では、いわゆる身体表現性障害において、症状が医学的に説明できない点を過度に強調しすぎていた」(P.305)と言うものである。さらには「症状を医学的に症状が説明できるかどうか、というのはとても難しい議論なのである。」(同ページ)ともある。ここで興味深いのは、身体症状症はまず症状が出現し、それが医学的な根拠があるなしにかかわらず、特別な意味づけを伴って体験されるものとして特徴付けられていることだ。これはストレス因を前提とする「心因反応」とはむしろ逆の形の病態と言える。
結論)
以上をまとめてみよう。本稿では神経症圏の心因反応、すなわち「心因反応」のあり方について考察した。その際「心因反応」の定義としてはJaspersの三条件、すなわち因果関連、了解関連、原因の消失による改善を用いた。そして半世紀前にこの概念が頻用されていた際には、ストレス反応の二種(「成人の状況反応」、「著明なストレス反応」)がその典型と考えられた。神経症一般についてはそれが「心因反応」と呼べるかの判断は難しく、それは無意識的なプロセスも因果関連、了解関連に含むことができるかという判断によることになる。さらに第三の転換反応ないしヒステリーは、これも「心因反応」と理解するためには、その了解可能性が、疾病利得を得るための作為によるもの、として考えざるを得ないことになり、きわめて特殊な意味での「心因反応」であると述べた。
さて現代の精神医学における「心因反応」をDSM-5を参照して考察すると、「ストレス反応の二種」のうち「成人の状況反応」がおおむね適応障害に対応し、比較的定義に近い「心因反応」として残っていると言える。しかし「著名なストレス反応」についてはそれがPTSDやASDとして概念化されなおした際に、「心因反応」としての性質は薄れ、むしろ内因性の疾患に近づいたと言える。そしてそれは現代の神経症圏の障害についてもいえる。さらに転換反応については転換性障害に概念化されなおした際に「心因反応」としての色彩をさらに失ってしまったと考えざるを得ない。結論から言えば従来の定義による「心因反応」の元に掲げられるべき精神障害はきわめて限られたものに縮小してしまったと言うことができよう。