未だこの論文をぐずぐず続けている。調べ始めると奥が深いのだ。
●心因論の変遷と神経症概念
いわゆる神経症における心因論の持つ意味について、現代的な立場から論じるのがこの小論の目的である。「心因」という用語は、「心因性の疾患」や「心因反応(体験反応)」などの表現で従来精神医学において用いられてきた。1980年代、筆者が新人の精神科医の頃は、「心因」という用語は精神医学の教科書にも掲載され、特にドイツ精神医学で育った諸先輩たちには馴染み深い概念として用いられていたという印象がある。しかし最近のDSMやICD世代の精神科医のあいだでこの用語が用いられることはかなり少なくなってきているようだ。
心因反応というと、文字通りある出来事に対する心の反応であり、その中でも比較的軽症の症状を思い浮かべがちである。しかしかつては「自律神経失調症」と同様に、精神分裂病(現「統合失調症」)の符牒として用いることもあったとされ(池上, 2009)、本概念について論じる際にはさまざまな歴史的経緯を考慮する必要がありそうである。「心因」の概念の端緒は、ドイツの精神科医R.Sommer が用いた‘Psychogenie’(Sommer, 1889)とされるが、彼はそれを「観念により起こり、観念により影響される病態」と定義した(田代, 1997)。しかしそれは精神病圏に及ぶ範囲の症状を想定していたのである。その後 K. Jaspers(1913)はこの概念について因果関連、了解関連、原因の消失による改善、の三条件による常識的な理解の仕方を示した。すなわち1.原因となる体験がなかったら、その反応体験は起きなかったであろう。2.その状態の内容、主題は、原因との関連で了解可能である。3.原因が去ればその状態も改善する、という条件である。
さらにK. Schneider (1950,1957)
はこの概念を内的葛藤反応と外的体験反応の二つに分けた。前者は不安や不眠が中心の神経症レベルのものであり、後者は反応性うつ病、反応性躁病、反応性錯乱、急性妄想反応など、幻覚や妄想といった現実検討能力の著しい障害を伴う精神病レベルのものとし、後者を狭義の心因反応とした。
こうして心因反応として、理解可能な反応でありながら精神病水準のものまで含むという、ある意味では錯綜した概念が成立したわけだが、それは現在の精神医学にどう反映されているのだろうか。DSM-IV-TR(2000)にもSM-5(2013)にも、あるいはICD-10(1990)やICD-11 (2018) にも心因反応という診断名は見られないのが現状である。おそらく従来そう呼ばれていたものが様々に形を変えて別の診断基準の中に吸収されていったものと考えられるが、それが現在の精神医学における心因反応の概念の理解をどのように反映しているのかを探るのが本稿の目的である。
本稿では神経症レベルの心因反応、すなわち Schneider のいう「内的葛藤反応」に準ずるものとして、そこに精神病レベルのものを除いたものとして論じることにする。そしてこの意味での心因反応を「心因反応」とカッコつきで表記することにする。その判断の基準としては、上述の Jaspers の三条件を満たすものと定義しておく。
この「心因反応」の概念を分かりやすく言い換えるならば、それはある種の正常な体験、つまり正常な心がストレス因により正常の心理的な反応として呈した状態と表現できるだろう。すなわち患者が示したそのような反応を、健常者である私たちが仮想的に体験できるのであり、それが「了解可能」という意味に込められているのだ。ただし一点だけこの概念の問題を挙げるならば、それは「正常の心理的な反応」と規定することそのものにあるだろう。なぜなら私たちは「心因反応」を依然として疾病ないしは障害として扱うからである。そうである以上は、これをただの「正常な反応」とすることには矛盾が生じる。つまり「心因反応」は「正常の心理的な反応でありながら、その表れは障害と呼びうるほどに深刻である」という矛盾を抱えた概念にならざるを得ない。その意味では心因反応の概念はそもそもその範囲に精神病性のものも含めたSommer の定義からしてすでに矛盾を抱えていたということが出来るであろう。
さてこの「心因反応」の概念は、ここ半世紀で大きく形を変えようとしており、それがこの用語が用いられることが少なくなっている原因でもあると考える。そこで精神医学の歴史をたどってこの概念の変化が何を意味するのかを追ってみたい。
Schneider, K (1962) Klinische Psychopathologie Sechste,
verbesserte auflage Georg Thieme Verlag. Stuttgart クルト・シュナイダー (著), 臨床精神病理学 増補第6版, 平井静也, 鹿子木敏範訳, 1977年
池上秀明(2009)巻頭言:病名「心因反応」をめぐって 精神神経学雑誌 111, p.1321.
田代信雄(1997)神経症性障害の成因P14~34 臨床精神医学講座5 神経症性障害・ストレス関連障害 田代、越野編 中山書店)