SM先生:ある難しいDIDの方との治療をしていてとても興味深いエピソードがあったんです。外来で会っていたのですが、いらっしゃる度に、話を始めると、すぐにピュ-って帰っちゃう方なんです。大人の女性なんですけれど、いつも子ども人格が出てくるんです。私はその頃はまだ経験が少なくて、どうしようと思っていました。そこで私の診察室に置いてある人形をある日それをヒュっと渡してみたら、それをキュッと抱きしめて、それからまたピューっといなくなってしまったんです。お会計もしないで(笑)。
(中略)
(中略)
O先生:なるほど。とてもいいお話ですね。
S先生:私はこれまでは、患者さんのマインドフルネス的な部分に訴え、本人にとって切り離されたものが舞い降りることに気づいてもらうということを、重視してきました。人格がせっかくこの場があるのに居場所がないと感じるのは、患者さんがいろんな自分を出せないからだと考えるわけです。そこでいろいろな自分を表現していくうちに、それが自然とその治療場面を通じてまとめあげられていくのだろうな、と思います。それも、ギュツ、ギュッと強く結ぶのではなく緩やかに、というわけです。この統合というテーマはそれだけ難しいので、こういう言い方をして逃げ切っているんですけれど、「ここで君が自分を出せば出すほど、この場所限定という形でも場所を作ることが出来るし、出さないとその場所がなくなるんだよ、と。つまり、母親との関係が場所になるというのは、母親にいろいろな自分を出せる経験をすればするほどそうなるのだ、というのを最近ある患者さんから教えてもらいました。
O先生:S先生のおっしゃる「解離の舞台」というのは、つまり治療者の心にあるということですね。
S先生:そうなんです。病気の症候の舞台もあるんだけれど、大事なのは、その症候の患者やほかの役者のいる舞台ではなくて、観客っていうか、外部なのです。それなしには物語はリアルにならないかなと思うんです。だからあまり舞台の中に入ってしまうと、どこかが違うと思います。今日私が発表した症例では、僕は多少舞台の中に入り込んでしまっているのではないか、と思いました。そこから離れた他者というものは、あるいは外部というのは、どこにあるんだろう、と。もちろん、患者さんの世界の中に外部を探そうと思えば、当然出てくるだろうとは思うのですが、そういう外部というのをやっぱり開いていかないといけないと思います。そこへまた吸い込まれちゃうのでは、もちろんいけないのですが、スクリーンがかかった外部というのを見るというのも大事であろうと思います。別人格たちがそろって外の世界を見ている、という時も、スクリーンに映っているものはどこから来たのかということとも関係するわけです。それともうひとつ、O先生にちょっとお聞きしたいことがあります。どうして精神分析の人たちは、他人格に会わないのでしょうか? なぜ、ヒステリーという言葉をずっと使って、解離っていうのをいやがるのか。不思議ですね。なぜ会おうとしないのか。そこのところをちょっとお聞きしたいと思います。
O先生:全くその通りです。困ったものです。精神分析の場合には、たとえば、子どもの人格が出てきたら、「それは、あなたが抑圧していたものを今表しているんでしょ、それもあなたです」というふうになってしまいます。分析家たちは「あなたはひとり、唯一の存在です」という前提に立っています。ブロイアーとフロイトが「ヒステリー研究」を書いたときに、ブロイアーは、いや、ふたつの心があってもいいじゃないかというふうに考えたときに、フロイトは絶対それはだめだと考えて、そのことは考えないようにして理論を作り上げて、今の精神分析があります。フロイトはリビドー論だったから、心の中で見たくないものはぎゅっと力をこめて無意識に押しやる、そこでもってもう一つの意識が生まれる。でもそれは、ひとつの心の中の下の部分、無意識だという図式をずっと変えなかったので、今まで来ています。
S先生:解離の人たちの人格に対して会わないと言ってしまうと、本当に解離の人たちは、人格はどこへ、どうやって表現していけばいいのかわからなくなります。必ず主人格を通してください、では苦しいじゃないですか。
O先生:そうなんです。だから治療者にあった人格、治療者用人格でずっと来続ける。(フロア笑い)いや、私は分析の人間なので、分析を否定してはいないです。でも、そういうことみたいですね。
S先生: そうだと思います。そういう人格しか来ない。
O先生: そうですね。