私の知っているある有能な臨床家は、まだ複数のEPを持っていますし、その方はISH(Inner Self Helper 内的自己救助者)もしくはオルファ(サンドール・フェレンツィが『臨床日記』で述べた守護天使)によって導かれていた時期があるということです。本当に少しですけれども、こうしなさい、こうしなさい、という声が聞こるとのことです。それはその方の、おそらく7歳以前の大きなトラウマと関係しているのだと思います。ラルフ・アリソン的な意味での解離を持った方だと思うのですが、その方がDIDだったかというと、そうではないと思いますし、別に障害レベルではないそのような方は結構いらっしゃると思います。その意味で私は人間は統合された存在であるという考え方が、あまりありません。中井久夫先生がおっしゃったように、人間は超多重人格なんだ、人格の間を行き来できればいいだけだと思います。例えば自分の中の人格を「人差し指ちゃん」とか言っているとだんだんそこが独立して来るというようなことがあるので、そういう意味では直接話しかけないとか、なるべく自分からは名前をつけないとかというのは、意識していますけれども、私は分けないけれども無理やり一緒にもしないという立場をとっています。それは臨床体験からなのです。
S先生:私も少しだけコメントいたします。私は解離を空間的変容と時間的変容、つまり、離隔と区画化という形に分けて考えているのですが、現代社会においては、離隔というか、離人症が非常に蔓延していて、これはどうしようもなく我々の時代の特徴でもあるのだろうと思います。だから統合ということで離隔という離人症的なものを無理やり一緒にしてしまうのではないにしても、コロッ、コロッと変わり過ぎるよりは、多少の統合は必要だと思うのです。それぞれの体験の記憶がなくなってしまうと、責任の主体はどこにあるのか、ということになるわけです。要するに、離隔、離人の問題を多元化という方向に持っていくべきではないかと思っています。他方では統合にもどこに意味、どれだけの意味を持たせるかということも問題にはなると思いますが。フロアやシンポジストの方々といろいろお話できればと思っています。いかがでしょうか?
参加者A:ひとつ確認ですが、多元化というのは、具体的にはいわゆる健忘障壁とかがない、という意味でしょうか。つまりそれぞれの人格が独立していて、しかし情報交換が意識されているということでよろしいでしょうか。
S先生:多元化もいろいろな意味があるとは思うんですけれども、要するに固定された視点ではなくて、いろいろなところに意識や視点を変えられる自由さみたいなものを意味します。あるいは行動においても、そういうのもひとつの現代の必要な能力かなというふうに思ったりするものですから、そんな言葉を使いました。
OK先生:その場合、ひとつの指標というのが、交代人格のエネルギーだと思います。彼らが出ているときに、もう眠くなって、あとはもういい、みたいになっていくんですよね。そうすると、これがひとつのサインかなというふうに思います。そのような時は自然に、「あぁ、眠たいんだね、じゃあ、寝ていいよ」 という風にいえるでしょう。でも、眠たくなる前には、何かを達成したいと思っている可能性もあります。何かに満足したい。そしてどうしたら満足できるか、ということは、人格によって違うと思います。自分がかつて見たこと、聞いたことを話したいのかもしれないし、自分が買ってもらえなかったリカちゃん人形を買って、遊んでもらってから眠る、ということかもしれません。人生で何を思い残しているのかを、それぞれの人格に聞いていくことが必要なんだろうなっていうふうに思いました。