いい加減さと揺らぎ
ここから私はいい加減さというテーマに深く関係した「揺らぎ」の話に入りたいと思います。揺らぎとは最近とても盛んに議論になっている現象ですが、自然界に潜むある種の法則といってもいいと思います。そしてその自然界には生命現象も含まれます。適度な揺らぎは生命力の源泉ともいえるでしょう。いい加減さとは、実は揺らぎの問題としてとらえ直すことが出来ます。
皆さんは自然現象がことごとくこのゆらぎを含んでいることを体験的に知っているでしょう。大地は常に揺らいでいます。風もその強さや方向性は常に揺らいでいます。生命現象に関しては、例えば私たちの脈拍は揺らいでいますし、血圧も揺らいでいます。私たちの脳波を取るとこれがまた揺らいでいます。私たちが行う経済的な活動、例えば株の売買のために、株価は常に揺らいでいます。このゆらぎが揺らぎである特徴としては、そこにフラクタル性が隠されているということがあります。それはスケールを大きくしても、小さくしても、同じような揺らぎが見られるという現象です。
どっちでもいい、といういい加減さは二つの決定の間を揺れ動きながら決めかねるという優柔不断なニュアンスを含みますが、これはどちらにも行かないということでもあります。つまりどちらか一方への暴走を防いでいるという役割を果たしています。実は私たちはいつもそれをやっているのです。これは実に巧妙な動きでもあるのですが、それをどうして身に着けたのでしょうか? それは私たちが生まれてから発達途上で生きる、体験するということを通して体得されていくのです。例えば私たちが片足立ちをすれば、それはすぐにわかります。生まれて初めて片足立ちをしたときにはすぐ倒れてしまったでしょう。しかしいつの間にか練習を通して、片足で立つということを覚えます。私たちの体は揺らぐでしょうが、それはどちらか一方に偏ることに対する反動という形で常にバランスがとられているわけです。そう、いい加減であるということは、バランスを取っているというわけです。それが揺らぎという現象となって表れるわけです。
私たちは初めて独り立ちをするとき、あるいはそれを行う前から、転ばずにバランスを取って体を動かすという練習をしています。私たちの神経系は一方の筋肉の緊張が行き過ぎればその反対側の筋肉が収縮をするという仕組みを備えています。こうして揺らぎはある意味ではカタストロフ(たとえば倒れること)に対する予防という意味を持ちますが、それが積極的に選ばれる必要もあり、それは揺らぎが私たちにある種の心地よさを与えてくれるからです。
私たちは初めて独り立ちをするとき、あるいはそれを行う前から、転ばずにバランスを取って体を動かすという練習をしています。私たちの神経系は一方の筋肉の緊張が行き過ぎればその反対側の筋肉が収縮をするという仕組みを備えています。こうして揺らぎはある意味ではカタストロフ(たとえば倒れること)に対する予防という意味を持ちますが、それが積極的に選ばれる必要もあり、それは揺らぎが私たちにある種の心地よさを与えてくれるからです。