2019年3月1日金曜日

CPTSD現行の仕上げ 2


2.CPTSDと精神分析的な治療 
以下にCPTSDの治療について述べるが、それにここからは伴い患者という表現を「来談者」に改めておく。
そもそもCPTSDとはどのような病理なのかについてまとめてみよう。CPTSDPTSDという直接のトラウマによる症状とともに、否定的な自己観念と関係性を維持することの困難さに特徴づけられる自己組織化の障害が見られるということである。すなわちトラウマ的な養育環境のために他者との基本的な信頼関係が築けなかった人々を想定していると言えよう。ただし先述したとおり、ICDの記載では成人以降にも生じうる拷問や隷属の状況が記載されている。これは一度は成立していた愛着上の問題が破壊ないし再燃された状態と見ることが出来るかも知れない。
ここで留意するべきなのは、CPTSDにおけるDSOdisturbances in self-organization 自己組織化の障害)は自己イメージの問題にとどまらず、他者イメージの深刻な障害が伴っていることである。他人を信用できず、自分に対して何らかの脅威となりかねない存在と感じる傾向は、その人の社会生活をますます非社交的で狭小なものにする。それは親密さに基づく他者との関係や信頼関係のもとに成り立つ職業に携わることに深刻な影響を及ぼすであろう。そのような来談者との治療においては、安定した治療関係を成立させること自体が治療の重要な目標と考えられるだろう。
トラウマの犠牲となった来談者に対して、私は以下の5つの項目に留意しつつ治療を行うことを推奨したい。それらは  治療関係の安全性と癒しの役割、トラウマ体験に対する中立性、「愛着トラウマ」という視点、 解離の概念の重視、 関係性や逆転移の視点の重視、である。以下に特にCPTSDを念頭に置きつつこれらの項目について個別に論じたい。
第1点は、治療者が自らが提供する治療関係が十分な安全性を持ち、また癒しの役割を果たすことをまず念頭に置かなくてはならないということだ。これは改めて言うまでもないことであるが、トラウマの治療を一種の技法と考えた場合には忘れられてしまいかねない項目なので、ここで特に強調しておくことに意味があろう。トラウマを抱えた多くのクライエントは精神的に切羽詰った状況で来院することが多い。つまり「少し経済的、時間的な余裕ができたので、自分の人生を改めて振り返ってみたい」という来院の仕方とは異なる場合が多い。多くの来談者が実際に深刻な心の痛みを体験し、それを耐えがたく感じて癒しを求めている。そしてそれだけに来談者は治療機関の持つ雰囲気、受付係の応対の仕方、そして治療者の一挙手一投足に大きな影響を受け、場合によってはそれらによって傷ついてしまう可能性がある。治療場面が安全で癒しを与える雰囲気を持つことは、CPTSDの治療がまず成立するために必要不可欠なのである。
この治療関係の安全性や癒しの役割ということは、おそらく治療構造の遵守という考え方とは別の性質ものであると考える。安全性が保たれ、治療場面が傷つきの体験とならないためには、治療構造を厳密に守ることは最優先されないこともある。これは治療構造の「柔構造的」(岡野、2008)なあり方を目指し、「剛構造」的な面を優先しない、と言い換えることが出来る。
たとえば50分の枠での面接を行うとする。そして何らかの事情で治療の終わり近くに、それを予定通りに終了できない事情が生じたとしよう。来談者の情動の高まりが抑えられなくなったり、急に扱わなくてはならない記憶が蘇ったり、解離性の別人格が出現したりする、などの事情が考えられよう。そしてもし治療構造を厳守することでそれが来談者の傷つき体験につながるとしたら、それを最優先されるべきでないことになる。(もちろんこのような場合には、次の時間に予定している来談者への謝罪や説明、などすべきことは沢山でてくるであろう。しかしそれはいわば緊急事態に応じたダメージコントロールであり、その必要性も含めて来談者とあらかじめ、あるいはその後に話し合われるべきであろう。)
2点は、治療者は中立性(岡野、2009)を保ちつつ治療を行わなくてはならないということである。ただしトラウマ体験を有する来談者に対する中立性は独特の意味を持つ。それは決して来談者に対して行われた加害行為そのものの是非に関して中立的であることではない。つまり「加害者にも悪気がなかったのかもしれない」「被害者であるあなたにも原因があった」、という態度を取ることでは決してないのである。むしろ「いったい何が起きたのか?」「加害者は何をしようとしていたのか?」「何がトラウマを引き起こした可能性があるのか?」「今後それを防ぐために何が出来るか?」について治療者と来談者が率直に話し合うということにより表される中立性である。ただしこのような意味での中立性でさえも、来談者には非共感的に響く可能性がある。被害に遭った来談者の話を聞く立場として、治療者が来談者に肩入れをして話を聞くことはむしろ当然のことと言わなくてはならない。それなしでは治療関係そのものが成立せず、治療者の上述の意味での中立性が意味を持つ段階にさえ行き着けないであろう。
ところでここで示す中立性は、精神分析における中立性や受け身性とはかなり質が異なることを十分理解しておくべきである。たとえば来談者が過去の虐待者に対して怒りを表明しているという場合を考えよう。もしそれに対して治療者が中立性を守るつもりで終始無反応で対応した場合,来談者は自分の話を聞いて一緒に憤慨しない治療者に不信感を抱くかもしれない。来談者は場合によっては治療者がその虐待者に味方しているとさえ感じるであろう。もしそれにより治療者と来談者の間の基本的な信頼関係に重大な支障をきたすとしたら,そのような対応は実際には中立的ではないものと考えなくてはならない。したがって来談者によっては分析的アプローチを保つことに固執せず,治療者が必要において態度表明や感情表現をすることが,中立性を保つうえで重要な場合があるのだ。
 しかし治療者が感情表現をすることが治療的であるとばかりは言い切れない。来談者によっては,治療者が一切の感情表明をひかえて受け身的に話を聞いてもらえることを何よりも安全に感じる場合もあるからである。このように個々の来談者の特殊性を十分に理解し,それに柔軟な対応を示す姿勢こそが重要なのであり,そのような態度が真の意味での中立性と言えるだろう。
3点は愛着の問題を重視し、より関係性を重んじた治療を目指すということである。そのような視点は、いわゆる「愛着トラウマ attachment trauma」(Schore, 2002)の概念に込められていると考えていい。CPTSDを呈する来談者は、その愛着関係の形成期にすでに深刻なトラウマが織り込まれる可能性がある。そしてそれはその人の一生にわたって影響を及している可能性がある。
精神分析理論を打ち立てたフロイトは幼少時の親との体験が将来にわたって大きな影響を及ぼす点に注目したが、その点に関しては、フロイトはまさに正しかったといえる。その後フロイトは幼少時に実際に生じた性的なトラウマから、幼児の持つ性的欲動の持つ外傷性へと視点をうつし、それが後に一部から批判されることとなった。ただし愛着トラウマの視点も、その形成時に生じたであろう明白なトラウマを必ずしも前提とするわけではない。愛着トラウマの結果として、人はしばしば「自分は望まれてこの世に生まれたのではなかった」という確信を有する。しかしこれはあからさまな虐待以外の状況でも生じ得る、母子間の一種のミスコミュニケーションの結果でもありうる。そこには親の側の養育態度の問題という要素だけではなく、子供の側の敏感さや脆弱性も考えに入れなくてはならない状況が想定される。愛着トラウマの概念は、このような広い意味での母子間のトラウマ的な関係性についての視点を提供する。治療者は過去のトラウマの想起やその治療的な扱いを優先的な治療目標とするという姿勢から離れ、まずはより安全な治療関係を形成することを第一の目標にすべきであろう。ただし不完全であった愛着を治療関係の中で形成しなおすという野心に捉われるべきではないだろう。
4点目は、解離の概念を理解し、解離・転換症状を扱うことを回避せず、積極的にそれらとかかわるという姿勢である。最近では精神分析的な治療のケース報告にも解離の症例は散見されるが、フロイトが終生解離の概念に対して懐疑的な姿勢を取ったこともあり、なかなか力動的な治療者からは十分な理解を得られていないのが現状である。解離を扱う際の一つの指針として挙げられるのは、来談者の症状や主張の中にその背後の意味を読むという姿勢をと同時に、その表面に現れた意味を受け取るという姿勢である。古典的な精神分析が掲げた抑圧モデルでは、来談者の語る夢、連想、ファンタジーなどについて、それが抑圧し、防衛している内容を考える方針を促す。しかし解離モデルでは、たまたま表れている心的内容は、それまで自我に十分統合されることなく隔離されていたものであり、それをそのままの形で受け入れることが要求されると言っていいであろう。この点が重要なのは、解離の症状はフラッシュバックとしての意味を有し、ある意味では過去に起きたことが再現されているからである。しかもこれは来談者の見る夢についても同様だ。来談者から折檻されている夢を見、その報告を受けた治療者は、それをある種の象徴的な意味合いを持ったものとして解釈するべきであろうか。ただしこの問題を考えれば直ちに納得する点がある。それはおそらくそのような夢ですらある種の加工や象徴化ないしはファンタジーを含んだものである可能性があるということだ。その意味では来談者の示す症状や夢に、そのものが表すものと、それが象徴、ないし代弁する内容の両者を見据えるという必要が生じるのである。
5点目の関係性や逆転移の重視は、CPTSDを有する来談者の治療にとって最も重要な意味を持つ。トラウマを体験した人との治療関係においては、それが十分な安全性を持ち、また癒しの役割を果たすべきであるということはすでに述べた。トラウマを扱うための治療関係が来談者に新たなストレスを体験させたり、支配-被支配の関係をなぞったりする事になれば、それは治療的な意味を損なうばかりではなく、新たなトラウマを生み出す関係性へと発展しかねない。精神分析的な治療においては、来談者の洞察やこれまで否認や抑圧を受けていた心的内容への探求が重要視されるが、それは安全で癒しを与える環境で十分にトラウマ記憶が扱われることを前提としているのである。
トラウマを受けた来談者を前にした治療者には、しばしばそのトラウマの内容に心を動かされた結果、それを十分に治療的に扱えなかったり、逆に来談者のそれらへの直面化を促し過ぎる傾向が見られる可能性がある。これらはいずれも治療者の側の逆転移の要素と考えられるが、その中でも最大なものの一つが、治療者の救済願望であろう。ただしこれはそれが全く生じない治療者の場合を考えてみればわかるとおり、むしろ期待の持てる逆転移といえる。そしてそれはもちろん治療者自身が常に意識し、目を向け続けなくてはならないものであり、来談者への気持ちに常に適度なブレーキをかけ続けるような治療関係がむしろ望ましいのであろう。そしてこの逆転移が治療に対してネガティブな影響を持つか否かは、それがくじかれたり裏切られたりした時の治療者の反応次第ということになる。例えば来談者が連絡なしにキャンセルをするということはしばしば起きるだろう。あるいは別の治療者にセカンドオピニオンを求めることもあるかもしれない。それに対して治療者が極端な失望や落胆などにより反応する場合には、その救済願望は自己愛という混ざりものを含み過ぎていることを意味するのであろう。
治療者のサディズムはもう一つの重要な逆転移といえるかもしれない。来談者は治療の過程でしばしば、自分が以前陥っていたような関係、つまり相手の前で受け身的であたかも攻撃されることを待っているかのような態度を示すことにもなりかねない。治療者から来談者への厳しめのアドバイスや直面化は、表面上は配慮や善意の衣をまとっていても、そこに棘が隠されているかもしれない。あるいはそうであるような疑いを抱かせるだけでも同様の力を持ってしまう。無論治療者の持つサディズムはその人生の中で長い歴史を持ち、その根源をたどることさえ不可能かもしれない。治療者は自らそれに気が付くしかないが、そのために、ひとつの思考実験を示しておきたい。
「過去の人間関係の中で、急に弱い立場に立たされたり、試練を経験しなくてはならないような人を目の前にした際、自分はどのような気持ちを抱き、どのような態度をとってきただろうか? ライバルの失敗に救いの手を差し伸べることに積極的になれただろうか? あるいは学生時代に虐めが周囲で発生した時、第三者としての自分がどのような気持を持っただろうか?」これらは治療者の中に眠っているサディズムの傾向を知る上で参考になるだろう。
最後に第6点目として付け加えたいのは、治療者は倫理原則を遵守すべしということであるが、これについてはもう改めて述べる必要もないかもしれない。トラウマ治療に限らず、精神療法一般において倫理原則の遵守は最も大切なものだが(岡野、2016)、ともすると治療技法として掲げられたプロトコールにいかに従うかの方が重視される傾向がある。トラウマを体験した来談者の場合に特にこの倫理原則が留意されるべきなのは、来談者は自分がまた被害に遭うのではないか、搾取されるのではないかという懸念をきわめて強く持ち、そのために治療者にも加害的なイメージを投影する可能性が高いからである。治療者の学問的な好奇心に従った質問、症例報告の承諾の際のやり取りなどが治療関係にネガティブに作用することのないよう、最大の配慮が払われなくてはならない。
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以上CPTSDについてその概念的な理解と治療論について精神力動的な立場から論じた。CPTSDを含むトラウマ関連障害は、それが従来の精神分析的な考えを一部改編することでよりよく応用できるという点を示せたら幸いである。

(参考文献)
省略