2019年3月28日木曜日

解離の心理療法 推敲 42


もちろん黒幕人格のような人格についてはすでに専門家によりいろいろ記載されています。「構造的解離」(Ven der Hart, Nijenhuis, & Streele,2006)は世界各国で翻訳されている解離理論ですが、それによればその人のパーソナリティの情動的な部分(emotional part of the personality, 以下「EP」)という概念があり、黒幕人格はそのひとつであると考えられています。一般に解離性障害は、その人の人格の統合がうまく行かなくなることとして理解されています。トラウマ的な出来事が起きると、人格は日常生活に適応する為の「表面的に正常な部分」(apparently normal part of personality、以下「ANP」)と、防衛に特化したEPとに分けられてしまうと説明されます。ANPは日常生活を送る上で出てくる人格たちで、仕事をしたり、社会的な付き合いをするといった機能を担います。それに対してEPは強い感情の体験を担当します。つまりANPで送っている生活において、怒り、不安、喜び、といった強い情動が体験されたときに、人格がEPのうちのひとつにスイッチするということが生じるわけです。これらのEPは、かつて当人が危機的状況やトラウマの際に強烈な情動を引き起こされかけたときに、当人がそれに耐えられなくなって身代わりとなって出現した人格たちですから、似たような状況では同じことが生じるわけです。黒幕人格はその中でも最も強い情動を担い、そのせいもあって最も内側に隠れている人格のひとつといえるでしょう。
 黒幕人格の定義を先の三つの主要な要素を持つものとし、以下に項目ごとに説明していきます。
   
 1-1 怒りと攻撃性
 怒りと攻撃性は、黒幕人格のまさに核となる要素といえるでしょう。ふだんは穏やかな患者さんが、日常生活において突然激しい怒りを表出し、自傷行為に及んだが、その記憶がない、というエピソードを聞くことがしばしばあります。これは黒幕人格が出現して一連の行動を起こしたということを暗示していますが、それを聞いた治療者は、目の前の患者さんと、語られたその激しい行動との違いに動揺することもしばしばあります。もちろん患者さん本人はそれが自分の起こした行動であるという自覚さえも少なく、また周囲の人の、本人が聞いたらさぞショックを受けるであろうという配慮から、実際の行動について本人に伏せられていることもあります。ただし多くの患者さんは「自分の中に怖い人がいるらしい」「自分の中の死のうとしているようだ」「どうしてそんなことをするのか、わからないから、止めてほしい」などと、第三者の存在やその行動として語られることもあります。つまり黒幕さんは表に出ていないときでも、その存在感やオーラを中の世界では発しているため、それに対して遠慮をしたり、それを刺激しないようにという気遣いが起き、それが患者さんだけではなく治療者の側にも伝わってくることがあります。「黒幕」という表現はそのような隠然たるパワーを発揮するというニュアンスを含みます。いわばその患者さんの背後で「睨みをきかせている」わけです。
 ここで特筆すべきは、主人格や他の人格は、怒りの感情の表出の仕方をあまり知らないということでしょう。周囲の誰かが主人格に対して、トラウマに関連する行動や侵襲的な態度を示した状況のときに、抱えた怒りや攻撃性をどう処理すればいいのかに困惑して、瞬時に黒幕人格と交代します。これは、主人格が黒幕人格を呼んだり招いたりして交代するというよりも、主人格がその瞬間に忽然と消えてしまい、黒幕人格が突如前に出てくるようなことであると考えられます。経路としてはここで三通りの可能性が考えられます。一つは怒りをそもそも表現してはならないという内的な抑制がかかる場合です。ただし怒ってはいけない、という他者からの抑制がその原因として存在していたとすれば、この第一の可能性は次の第二の場合に吸収されることになるでしょう。
第二の可能性は怒りを他者から、あるいは状況により抑制されている場合です。誰かから暴力を加えられた場合、怒りの表現がさらに相手からの暴力を招くことが分かっている場合、それらの感情表現は封じられることになります。そしてそれはその時成立した、将来の黒幕人格により荷われることになります。第三の可能性は暴力をふるってきた人格がそのままその人に入り込み、黒幕人格を構成するという可能性ですが、これは以下に述べる黒幕人格の生成過程でもう少し詳しく説明しましょう。

1− 2 正体がつかめないこと
  
 黒幕人格が、なかなか正体をつかみにくい理由としては、おそらく完全に人格として形成されていないという事情があります。筆者が出会ったある患者さんたちは、黒幕人格のことを「怖い人」「攻撃的な人」「おばけ」などと呼んでおり、宮崎駿のアニメーション映画「千と千尋の神隠し」に登場する「顔なし」や、人気ゲームのドラゴンクエストの「キングスライム」になぞらえる人もいます。
英語圏でも“it” (「それ」以外にも「隠れんぼの鬼」という意味もあります)とか、”unknown” などの呼ばれ方をすることがあります。交代人格にはたいていの場合何らかの名前が付いていますが、黒幕人格の場合にはそれが付いていないことが多く、またその姿かたちもせいぜい「黒い影のよう」と言い表される程度で、他の人格によって把握されていません。そしてそれが誰に由来するのか、過去の迫害的な人たちのうち誰に最も関係が深いかがわからないことがあります。
患者さんから特別その話を聞かない限り、面接初期には、黒幕人格はあまり意識されません。しかし、患者さんが家族から聞いた困った行動などが語られ始めると、黒幕人格の存在が、急に大きなものとして治療者に迫ってくることになります。とはいえ、他人に見られることや、識別されることを望まない黒幕人格は、そう簡単に面接中には現れません。また治療者側も、出会うことに躊躇する気持ちを抱えることが多いといえます。
この様な黒幕人格の性質は「精緻化されていない unelaborated」とでもいうべきものです。精緻化、とはいわゆる「構造的解離理論」に記載されている概念で、人格がその年齢や名前、性格、備えている記憶などがどの程度詳細に定まっているかを示します。精緻化されている人格は、言わば人格としての目鼻が備わり、詳細な個人史や知識を持っています。それに比べて黒幕人格はそれが整っていない、言わば「顔なし」に近い状態なのです。
黒幕人格が顔なし状態に近い理由はいくつか考えられます。自傷や暴力自体が衝動的で高次の脳機能による内省や熟慮を経ていないことを考えると、その人格はより原始的で動物に近いレベルでの理性や知性しか供えていないという可能性もあるでしょう。あるいは以下の三番目の性質に述べるように、それが出てくる時間が限られるために経験値を得ることもなく、言わば社会性のレベルについてはきわめて低い状態に保たれている可能性もあります。
ただ「黒幕」という呼び方が含意する通り、そこには裏で支配する、闇で糸を引くというニュアンスもあり、中にはきわめて高い知性を備え、みずからの姿をことさら隠すことで隠然たる力を発揮し続けるという場合もあります。
いずれにせよ黒幕人格に接触して心を割って話すということは非常に難しく、そのために時々起きる暴力や自傷行為、過量服薬や万引きなどに対して有効な策を講じることが出来ないでいる場合が少なくないのです
  
1− 3 重大な状況に一時的に表れる

 黒幕人格は大抵は突然出現します。特に相手を特定せずに無差別的に自分の怒りを表出することもあれば、特定の相手に攻撃を向ける目的で出現することもあります。通常その出現の仕方は瞬時であり、周囲が追いつけずに対応できない場合がほとんどです。これは黒幕人格が何かの刺激で偶発的に飛び出してきた、ということもあれば、すでにそれを後ろで見ていて意図的に飛び出してきた場合もあるからです。しばしば聞くのが、町を歩いていて、あるいは電車の中で、誰かが激しい口論をしているのを見て、突然黒幕人格が飛び出してきたというエピソードです。診察室で泣き叫んでいる患者さんの声が外に漏れてしまい、それが引き金になったという例もありました。
黒幕人格の示す攻撃性が特に激しい場合には、警察に通報され、そのまま措置入院になってしまう場合もあります。もちろん事件性が生じた場合は逮捕されてしまうこともあります。また自傷行為や自殺企図により自分自身の身体を傷つけたり、深刻な外傷を負った場合には救急搬送され、そのまま入院となることもあります。ただし多くの場合は特に大ごとにならずに済んでしまう場合も少なくありません。それは黒幕人格がかなり足早に姿を消してしまい、その後に戻った人格がその出来事を記憶していなかったり、およそ攻撃性とは程遠い印象を与えることで、周囲の人々もそれ以上深くかかわらないで終わってしまう場合が少なくないからです。そのために現場に駆けつけた警察官が拍子抜けしたり、キツネにつままれた気分を味わうことも稀ではありません。あるいは緊急の精神科入院となっても、病棟では全く静かでしかも黒幕さんの行動が全く記憶になく、早々に退院になるという事も起きます。
家族間の場合は、攻撃性が向かった相手が親や配偶者である場合は、それがすぐに収まるというパターンに慣れていることでしばらく体を抑えて元の人格に戻ってもらうことで終わってしまう場合も少なくありませんし、本人にとってトラウマになるからという理由でその間の行動を主人格に伏せたりするということもあります。
黒幕人格の出現が大抵は一過性であることの詳しい事情はわかりませんが、おそらく黒幕人格が出現して何らかの破壊的な行動を起こす際は、その行動自体が非常にエネルギーを使うため、すぐに体力が枯渇してしまい、休眠に入ってしまうという印象があります。特に暴力行為や破滅的な行動の場合は、かなり速やかに姿を消していきます。
また黒幕人格が外に出ること事体がその人にとって緊急事態であり、これ以上被害が大きくならないように他の人格が全力で黒幕人格を押さえ込んでいるというニュアンスもあります。患者さんの心の中を描写してもらうと、黒幕人格はしばしば奥のほうの普段は立ち入れないようなエリアで鍵のかかった部屋にいたり、鎖でつながれていると言った描写をなさいます。あるいは黒幕人格は深い休眠状態に入り、ごく稀にしか起きださないという話も聞きます。
ただしこのような理解の仕方では説明できないような動きを示す黒幕さんもいるようです。特に犯罪にかかわっている人格の場合などは、一連の行動を、しかもかなり長期にわたって行い、それ以外はめったに出現しないという事があり、この「エネルギー」説では十分に説明が付きません。
いずれの事情にせよ、黒幕人格を催眠等の誘導で呼び出して事情を聴くという事は通常は成功せず、一次的にしか姿を見せないという特徴の背後に何があるのかは不明としかいうことが出来ません。