2019年3月29日金曜日

複雑系 18  解離の心理療法 推敲 43

複雑系の話をしているところだが、ところで「いい加減さ」について考察しなくてはならない深い事情がある。それも6月までに。(ナンのことだ?
先月ある研究会で北山修先生が発表されたテーマがこの「いい加減さ」だった。そこで私たちは精神分析の将来についてそれぞれ意見を持ち寄って20分ほど話したのだが、先生はそこでこの「いい加減さ」について話された。それに触発されて少し考えてみたい。
先生は鑪幹八郎先生の不規則、組織統一のない、漠然としたという意味での「アモルファス」な自己、ないしは社会組織について言及した。「私たちの存在の基盤として揺るがないと考えられる基本的な思想や信条が曖昧模糊としている」という。
この点について、私は私なりによくわかるような気がする。何しろ「いい加減でない」「アモルファスでない」アメリカ社会での人間関係の中に17年いたからだ。両文化の違いは著しい。そして私の考えでは、このいい加減さとは、「その場の雰囲気で態度を変えてしまう」、という方が近いように思う。私はAKY(あえて空気を読まない)という方針だが、空気を読まされることに気恥ずかしさと抵抗を強く感じる。気が付いたら空気と反対のことをやっていたりするのだ。土居先生の「自分がない」だって同じである。
しかし北山先生の議論の面白いところは、これは日本人の一種の多神教的な在り方であり、世界の価値観の多様化の中で、実は一周先を走っていたのではないか、という発想である。なるほどすごい発想だと思う。彼はこれを一種のフレキシビリティと言い換えたいのだろう。彼はそこでこのような考えを出す。いい加減さとは、「あれかこれか」でも「あれもこれも」でもないという。彼はこれを揺れとか、免震構造、と言っている。(ちなみに私は柔構造と言った。)北山先生はこのことを精神分析の世界にある二つの組織、一方は緩い多神教的な精神分析学会、もう一つは純粋形を追求する精神分析協会についての言及し、「まあ、二つが分かれていていいじゃない」といい加減な立場を示す。
これに対するいくつかの反応がある。まず一つは、やはり鑪先生のアモルファスさは、「空気」と関係していると思う。日本人は態度を相手、ないしは空気によりきめる。そこには空気を読むのにそれだけ長けている、ともいえるかもしれない。そして「自分」を持っているいわば職人気質の人たちもたくさんいて、ちょっと頑固で皆と一緒に行動しない、などと言われ「発達っぽい」などとも評されながら生きているのである。この点は北山先生の議論では強調されていない気がする。日本人が空気を読むのは、自分だけのためでもなければ、周囲のためだけでもない。両方のためだろう。つまりそこでの「乗り」を損ないたくない。これを内藤朝雄先生は「群生秩序」と呼んだ。つまり日本は究極のムラ社会なのだ。これはお互いの肌の薄さ、過敏さがないと成り立たないことなのである。場の雰囲気を壊すことは自分自身もイタいのである。もちろんそれは虐めの荷担などにもつながる恐ろしい結果を生むことにもなろう。さて日本は周回遅れではなく、周回リードか、と言うことについては、何とも言えないが、そんなこともなくはないように思う。それにはなんといってもアメリカでの私の生活と、そこでの失望があった。日常生活を送ってて思うのは、「本当に大したことがない」し「情けないくらいにレベルが低い」と思えるようなことにいろいろであったからだ。しかし彼らには「日本人には想像もつかない」「とてつもない」「そこまでやるか!」という面があり、それは前者と連動しているのだ。つまり細かいことを気にしない、と言うより鈍感だからこそできる、思いつくことがあり、そこに彼らは最大の価値を置いているというところがあるのだ。


コラム:文化結合症候群との関連
黒幕人格の説明との関連で、精神医学的な症候群として知られるいわゆる「文化結合症候群」の中でも特に「アモク amuk」という病気について紹介しておく。ちなみに「文化結合症候群」とは耳慣れない用語かもしれないが、原語は「culture-bound syndrome」で、「特定の文化に根差した病気」という意味で、分かりやすく言えば「風土病」のようなものである。その一つの典型例の「アモク」は、人が突然気が狂ったように暴力的な行動を示し、その後正気に戻り、自分がしたことを何も覚えていないという状態をさす。その暴力は通常は無差別に行われ、突進やものを拾って投げつける、という通常のその人からは考えられないレベルのものであることが多い。本書で述べている黒幕人格の特徴、すなわち突然の出現や暴力的な行為のパターンはこのアモクという状態を思い起こさせ、またおそらく両者に共通する点は多いものと思われる。
実はアモクに類する病気は、一種の風土病のように世界各地に存在することが知られてきた。それらは「文化結合症候群」と呼ばれるものの主要部分を占める。ただしこの文化結合症候群というタームは少しヘンな言葉だ。言語はcultural-bound syndrome であり、本来は(特有の)「文化に根ざした症候群」ということであり、いわゆる「風土病」と呼ばれるものに近い。

アモクはマレーシアに特有のものとされるが、同様の症候群が世界の各地に見られる。北海道のアイヌのイム、ジャワ島などのラタ (latah)中国東南アジアコロー (koro)南米スストー (susto)、北米インディアンウィンディゴ (windigo)、エスキモーピブロクト (piblokto)などがほかの例としてよく挙げられる。筆者がこの中でもアモックについて述べるのは、“running amok”という英語表現の存在のためだ。「気が狂う」という意味で「アモクっちゃう」という言い方が日常的になされるということは、英語圏の人は一番この言葉になじみが多いであろうからだ。(ただし同じ意味で、気がふれることを「イムる」と表現したとしたら、解離性障害を持つ人々に対する差別的な響きを含んでしまい、これは断じて許せないことになる。「イム」とは日本に古くから存在するアモクに類似した文化結合症候群である。)
 
アモクの特徴は先ほど述べたが、成書などにはよく次のような説明がなされている。「マレーシアの風土病であるアモックは男性に多く見られる。典型的な場合は、ひどい侮辱を受けたり悲嘆にくれたりして引きこもり、物思いにふける様子を示す。そして突然周囲にある武器となるようなものを手にして飛び出し、やみくもに出会う人を攻撃し、しばしば殺傷に至り、また本人も自殺を図ろうとする。ところがしばらくして正常に戻り、それまでの暴力的な振る舞いの記憶は一切ない。」 
 
これらの解説からは、アモクにはいわゆる「心因」が想定されているようだ。それが下線で示した部分である。しかし同じように悲しみや侮辱を受けた人がよりによってこのような反応を示すことはきわめて例外的だろう。たいていは自棄酒を飲んだり、鬱になったり、という反応を示しても、無差別的な暴力を振るってしかもそれを覚えていない、というような事件を起こすことはない。だからこれらはきっかけではあっても原因とはいえない。またこれらが「文化結合・・・」と呼ばれるのは、それぞれの固有の文化により原因として異なる説明がなされるからだ。アモックの場合は「hantu belian(なんと発音するかは不明)という「トラの悪魔」が憑依した状態と説明される。そしてインドネシアではこれにより生じたとされる攻撃については目をつぶるという文化があるというのだ(以上、英語版Wikipedia”running amok”の項を参考にした)。おそらくこれにより生じた事件については、裁判官は「ただしこれがアモクにより生じ、被告はまったくそのことを覚えていないため、執行猶予をつける」というような判決が過去においてくだされていたのではないかと筆者は想像するが、実情は明らかではない。
 
ちなみに日本のアイヌ民族に見られる「イム」の場合は、貞淑な淑女がトッコニ(マムシをさす)やビッキ(蛙をさす)とささやかれると突然発狂して暴力的になるとされる。つまりそのような言い伝えがある、という観念がその文化で育った女性に植え付けられ、あとはそれに従った症状を示すということが生じる。そもそもイムという状態を知らないでイムの症状を示すことは不可能であろうが、ここがいかにも解離的な現象と言える。
 
文化結合症候群の説明を読んでいてしばしば出会うのが、これらの症状を示す人はもともとは表向きは非常に従順で、規範を重んじる人たちであるという表現だ。いや表向きどころか、実際にそうなのであろう。そしてだからこそ彼らの通常の人格にはない部分が別人格を形成していて、それがふとしたきっかけで表に出ると考えるべきなのだろう。そしてそれはその文化で「~のような人がなる」(イムであるなら貞淑な女性が忌み嫌われるものをささやかれた場合)という刷り込みをあらかじめ受け、後はそのプロフィールに合致した黒幕的な人格が静かに成立していて、やがてきっかけを得て出現すると説明されるのだ。
 もうひとつ重要な点は、これらの文化結合症候群を提示する文化はおそらくまだ文明的な意味で発達途上国であり、さまざまなタブーや抑圧が存在する環境であろうということである。そこでは不満や攻撃性や怒りは、その表現を文化という装置により抑えられていた可能性がある。だから現代社会ではアモクやラターやイムの存在する環境は少なくなっているのである。その意味では黒幕人格はおそらくイムやアモック的な由来を持つ可能性があり、それは他の典型的な交代人格とは異なる出自を有する可能性である。黒幕さんが「顔なし」(正体不明)である理由はそこにもあるかもしれない。