2019年3月19日火曜日

解離の心理療法 推敲 35


3 なぜ自傷をするのか 
3-1 動物も自分を傷つける
 
人はどうして自分を傷つけるのか。深い謎に包まれた問いです。現在の精神医学はそれに十分な答えを出していません。ただし一ついえるのは、自分の体を傷つけるという行為には、その人の持つ心の痛みが関連していることが多いということです。そしてそこには私たちがまだ良く知らない生物としての本能に根差した仕組みが隠されているようです。それが証拠に自傷は人間にだけ認められる行為ではありません。あるアメリカの研究(7)は動物の自傷として以下のような例を挙げています。

それまで、健康でなんの問題もなかった鳥が、あるときを境に、自分の毛を1本1本引き抜くようになりました。その行為により、皮膚が露出し、出血をきたしても、それはやむことはありませんでした。
 あるイヌは、これといった肉体的原因や外部刺激がないにもかかわらず、自分の体をなめたり、かじったりし続けて、皮膚に潰瘍を作ってしまいました(一般に「肢端舐性皮膚炎」等と呼ばれています)。潰瘍は人間の目には明らかに痛々しく見えましたが、イヌはトランス状態に入っているようなトロンとした目で必死に体を舐め続けました。
 この研究者の一人であるホロウィッツは、ロサンゼルス動物園からの依頼で動物の病気を診るようになりました。そして動物の診療を重ねるにつれ、動物と人間の病気には共通性があり、獣医学からの知見が人間の症状理解に非常に役立つことに気付きました。そのことは自傷行為についても当てはまり、自傷する動物を観察することによって、よりシンプルにその行動の起源を探ることができるのではないか、と考えたのです。
動物の自傷行為の定義は「自分の肉体を傷つけてダメージを与えるための、意図的な行動。当人を愛してくれる周囲の人々の混乱と苦悩」ということですが、ホロウィッツらはこれはまさに人間の自傷行為に共通するものだと言います。そして、このような強迫的に自分を傷つける行動を「過剰グルーミング」という視点から説明しました。グルーミング、というと、サルが相互に毛繕いをする姿などが浮かびますが、そうした社会的グルーミング以外に、自分自身に対して行うセルフグルーミングも存在します。たとえば、自分の体をなでたり、爪を噛んだり、かさぶたを取ったり、といった程度のことは、多くの人が癖のように無意識に行っていることでしょう。こうした行為を行っている時には、脳内に一種の麻薬物質エンドルフィンが放出されるため「解放-安堵」の作用、鎮静効果があることが判明しています。みなさんの多くが経験的にも実感できるところだと思います。グルーミングは、通常は穏やかに生活の中に折り込まれているものですが、一部の人間や動物においては、強力な自己鎮静効果を必要とする一群が生じます。そして極端な形のグルーミングを求めた結果、自分を傷つける行為につながった、というのが、自傷を「過剰グルーミング」ととらえる考え方です。
また、ホロウィッツらは動物の自傷への対処として、より侵襲性の少ない自傷を認める、という方法を提案しています。たとえば、心不全の手術を施されたゴリラでは、縫合跡をいじって深刻な結果をもたらさないようにしなくてはなりません。そこでそのゴリラが本来持っている強いグルーミング欲求を利用し、爪に派手な色のマニュキュアを塗ったり、実際の手術には関係がなかった「おとり」となる縫い目を作ったりして、関心をそらすそうです。同様の発想から、人が自傷衝動に駆られたときには、アイスクリームの大型容器の中に指を突っ込む、氷のかけらを握る、手首にはめたゴムバンドをはじく、カッティングしたい場所にカッターの変わりに赤いマーカーで線を引く、といった方法を勧めるセラピストもいます。とはいえ、これらは短期的な解決法であり、人間はもとより、動物の自傷においても獣医師らは社会的関係の改善が必要であることを説いているということも重要な要素として付け加えておかなければなりません。
ここでは、獣医師と医師の両者がともに動物の病気について学ぶ「汎動物学(Zoobiquity」の視点から自傷を考えてみました。動物の場合、行動からの観察は可能ですが、どのような主観の意識内容があるのかを知ることはできません。そのため、動物の自傷から得られる知見が、どこまで人間のそれに援用できるかという点については慎重さも必要だといえるでしょう。
  
3-2 自傷と報酬系
動物の自傷についての説明の中で、脳内麻薬物質であるエンドルフィンについてふれましたが、現代は、多くの心理学的現象を脳科学の視点からも説明する様になってきています。ここでも脳内の「報酬系」という部分の働きから自傷を考えてみましょう。
人間や動物の欲求が満たされたとき、あるいは満たされると予期されるときに興奮し、快感を生み出している神経系の仕組みを脳内報酬系とよびます。この部分が興奮することでドーパミンという化学物質が分泌されますが、これは快感物質とも呼ばれています。人間や動物は基本的にはこの報酬系によるドーパミンの分泌を最大の報酬とし、それを常に追い求めて行動するという性質を持っているのです。
ちなみに、この報酬系は、1954年、オールズとミルナーというふたりの若い研究者によって発見されました。彼らは、ラットの脳に電極を埋め込み、いくつかの実験を行っていましたが、脳の色々な部分を刺激し実験していくと、ある部分の刺激に対して、ラットは強く反応し、レバーを執拗に押すことがわかりました。それは、ときに1時間に7000回にもおよぶハイペースで、空腹であろうと極度の疲労状況であろうと、餌を食べたり休んだりすることなくレバーを押し続けてしまうという様子が観察されたのでした。その様子から、彼らは、この部位への刺激が快につながっているのではないかと考えたのです。まさに、快感中枢、報酬回路が発見された瞬間でした。
この報酬系の発見以前は、人を突き動かしているのは、攻撃性や性的な欲望といった本能的なものであると考えられていました。ただしそれらは無意識レベルにしまわれていて、間接的に行動に表されるものだ、という精神分析的な考えが主流でした。また行動主義を基盤とした心理学の観点からは、学習や行動の発達は罰の回避のみで説明できると考えられていました8)。そして脳のどの部分を刺激しても不快しか生じないと考えられていたのです。オールズとミルナーの報酬系の発見も偶然の産物でしたが、この発見により人や動物は主として快感(報酬)を求めて行動するという、いわば単純すぎるほど単純な原則の存在が明らかになったのです。 
さて、この報酬系と自傷行為の関係ですが、岡野9)は、自傷行為が報酬系を刺激し、自分の身を守るボタン(パニックボタン)として成立する過程を次のように述べています。
 非常に大きな心のストレスを抱えている人が、髪をかきむしり、たまたま頭を壁に打ち付ける。すると少しだけ楽になることに気が付くことがあるはずだ。それまでは痛みという苦痛な刺激にしかならなかったはずのそのような行為が、突然自分に癒しの感覚を与えてくれることを知るのだ。試しに腕をカッターで傷つけてみる。確かそんな話をどこかで読んだからだ。すると痛みを感じず、むしろ心地よさが生まれる。「このことだったのか・・・・」こうして普段は絶対押すべきではないボタン、と言うよりはそこに存在していなかったボタンが緊急時用のパニックボタンとして出現する。
 報酬系は、本来は脳の奥深くにあり、それは生活で喜びや楽しさを感じられるような行為に伴い刺激され、快感を生みます。そこを人工的に刺激しようとすれば、そこに直接作用するような薬物(酒、たばこ、違法薬物など)を摂取するか、あるいはオールズとミルナーのネズミの実験のように、そこに長い針を刺して電気刺激を与えるしかありません。しかし、極度のストレス下においては、通常は痛みを伴うはずの、壁に頭を打ちつけるような行為が、痛みを引き起こさず、報酬系に直結する刺激となって作用する、という現象が起きることが知られています。この偶発的な出来事から発見されたパニックボタンが、強いストレス状況のもとで繰り返し用いられるようになると、自傷行為が成立することになります。本来、自傷は痛覚を刺激するわけですが、それがむしろ報酬系を刺激する方向に向かうという、一種の脳の配線障害が起きていると考えられるでしょう。