2019年3月18日月曜日

複雑系 14

 ところで脱線だが、わかっているし、慣れているはずのものを繰り返すという現象がある。精神医学ではそれをcompulsive act self-stimulation とに分ける。前者は強迫である。何度も何度も手を洗う、など。行為自体はやり慣れているし、新しい刺激などない。しかしそれをやめると不安が襲ってくるために仕方なく行う、という苦しい作業だ。ところがself-stimulation 自己刺激は、繰り返し自体がある種の快感を生む。さっきの玩具の例で言えば、何度も何度も行為を繰り返す。夢中になってそれを続ける。発達障害傾向に特に結び付けて考えられることの多いこの種の行為は、慣れと新奇性との適度な割合が快である、という原則を破ることになる。したがって行為自体は本人にとっての益も少なく、ほかの有意義な活動を犠牲にする結果としてその人にとっての害になるだろう。
ただここで気をつけなくてはならないことがある。私たちにとっては同じことの繰り返し、いわゆる常同行為と解する事ができることも、彼らにとっては新しい刺激の連続かもしれないのだ。いわゆるオタクといわれる方々の行為をそのような意味で誤解してはならないのだ。かつてテレビでアサリの貝殻を延々と収集している人について見る機会があった。おそらく私たちの大部分にとって、彼の部屋に山と詰まれた貴重な蒐集物は意味を持つことは少ないだろう。もし結婚していてそのような趣味を持っていたら、配偶者に捨てられてしまう運命にあるだろう。でもその人にとっては、一つ一つの貝殻の持つ微妙な模様の違いが新たな感動を与えるのだろう。
昆虫の蒐集家でもある養老孟司先生が書かれていたが、昆虫の個体を集め、そこで新たな違いを知ることで、世界が違って見えると言う。彼の専門はゾウムシと言うことだが、素人目にはまったく区別の付かない個体にある変異を見つけ、それが新種であるという発見があったらそれはまったく新しい体験と言うことになる。同じように、子供が砂場で何度も砂をすくっては手から零れ落ちるのを体験している際、おそらく彼はその零れ落ち方の微妙な差を発見して夢中になっているのだろう。それを常同行為などと呼んで症状扱いすることは、おそらく間違っているのだろう。