妊娠と出産について
DIDを呈して受診する患者さんの多くは十代、二十代の女性であり、パートナーや配偶者を得て妊娠や出産を経験する機会が訪れることも少なくありません。解離の治療が進み、それぞれの人格が安定を取り戻した場合には妊娠や出産を考える可能性も当然出てきます。またそれが不可抗力的に生じてしまう場合もあるでしょう。さらには実際に幼な子を抱えた状態で受診される方もいます。子育てをする過程で、小さい頃の自分が想起され、それが交代人格の出現につながることもあるからです。
DIDの子育ての際に一番多く聞かれるのが、「自分はこの子を脅かすのではないか、傷つけるのではないか」という懸念です。周囲の人々がそれを懸念することもあります。そしてそれらの懸念は十分理解できるものです。実際に彼女たちの交代人格が過去に物を破壊したり、他人を脅かしたりするということが生じた場合は、その心配はより大きなものになります。
幸いこの懸念に対する私たちのアドバイスは、比較的楽観的なものです。DIDの患者さんを多く扱ってきた経験から言えることは、母親が子供にあからさまな危害を加えたというエピソードを聞いたことがないということです。母親の本能として、自分の幼な子を傷つけないということは深く刷り込まれているようで、実際にそれが生じることには様々な抑止が働くようです。これは人間以外の下等な生物にまで深く刻まれた本能といえます。とはいえ母親による嬰児殺しの例を私たちは知っています。「コインロッカーベイビー」という言葉もご存知でしょう。ただしそれらの多くは、「産後精神病」という重篤な状態で、子供を悪魔から守るために自分から手をかけるといった通常では考えられないような妄想に捉われた結果生じる不幸なケースです。DIDでそのような状態になることはありません。
ただし母親が人格交代を起こし、黒幕的な振る舞いをすることを、子供が目撃することは起きます。特に幼児がやがて物心つくようになり、母親の様々な人格に接するようになると、「お母さんが悪いことをしている」と認識することもあるようです。別人格の中には子供が自分自身の子供であるという認識がなく、扱いもぞんざいになるために子供の方から本能的に「お母さんとは違う人」と識別し、あまりかかわりを持とうとしないという傾向が生じます。
また当然ながら、DIDが自分の子供に遺伝するのではないか?」と心配する方もいらっしゃいますが、これも不必要な懸念といえるでしょう。DIDの当事者の方は、ふつうは子供を含めた他人の気持ちを敏感に察知し、それに合わせる(合わせすぎる)傾向にあるため、子供には同様の病理が成立しにくい環境を提供する傾向にあるのです。
私たちはDIDの当事者や家族から「子供を持っていいでしょうか?」と問いかけられた際には、「お子さんに対して傷つけるのではないかという懸念をDIDの患者さんは一般に過剰にもちすぎる傾向があるようです。」と伝え、できるだけ多くの情報を与えたうえで、彼女たちの判断に任せることにしています。また子供を持つ際にパートナーや配偶者の協力は絶対欠かせないため、両者の関係性を見たうえで総合的なアドバイスを伝えることがあります。
自分を通報したヨウコさん(20代女性、主婦)
(略)