第3章 治療構造の在り方とその工夫
1.はじめに
いかなる心理療法においても、その舞台となる枠組みが必要です。それを治療構造と呼びます。そこには治療を行う場の施設や部屋の環境、面接頻度、時間枠などの現実的な条件のみならず、治療者の態度や方針といった無形の条件も含まれています。
治療構造の考え方は、精神分析では非常に重視されます。いかに治療構造が守られるかは、治療が安全かつ確実に進んでいくために非常に重要であると考えられます。治療がいつも予定通り行われ、そこに大きな変化や曖昧さが伴わないことが患者さんにとっても非常に重要なファクターであると考えられています。
一般に心理療法は精神分析の考えを多く受けついでいますので、治療構造を重視する立場は多くの治療者が支持しています。実際に治療構造が守られることは、治療者側にとってもとても大切であり、またありがたいことでもあります。患者さんが来たり来なかったり、料金が支払われずに滞ってしまったり、治療時間が患者さんの都合で遅れて始まったり、長引いてしまうことは、治療者にとっても、またほかの患者さんたちにとっても大きなめいわくとなりストレスとなるのです。
率直に言えば、治療構造が守られる必要性は、ある程度は「治療者側の都合」とも言えます。治療者は一日何人もの患者さんとスケジュール通りに会い、治療記録を書き、気持ちを持ちなおして次の面接に備えるという分刻みの予定をこなし、それで生計を立てています。患者さんの側からはもう少し余裕を持って、時には時間を超えてあって欲しいという気持ちを持っても不思議はありません。でも治療者は様々な理由から治療構造に余裕を持たせることがなかなかできないのです。
ところで治療構造をきちんと守ることは、患者さんの苦しみが比較的軽く、また生活に余裕がある場合には、さほど難しくないかもしれません。実際に社会適応のレベルが高く、また治療に意欲を持っている患者さんたちは、この治療構造を非常によく守る傾向にあります。時間に遅れることもほとんどなく、時間が来たら退出し、無断キャンセルもなく、支払いも滞りないような治療関係では、治療構造を話題にすること自体にあまり必要性が生じません。そしてその構造化された時間の中で扱われる内容に集中することが出来ます。
これらを前提としたうえで考えるならば、解離性障害の患者さんの場合には、この治療構造をいかに守るかは比較的大きなテーマとなることがあります。解離性の患者さんとの治療がしばしば面接外に持ち出され、一旦定まったかのようにみえた構造が揺るがされる傾向があるからです。前回と異なる人格部分が受診する場合などは、たとえ開始時間が守られているとしても、ある意味では構造上非常に特殊な事態といえるでしょう。ただしすでに述べたように、治療構造を守ることは、ある程度は「治療者側の都合」であり、患者さんの側に治療構造を維持すること以上に緊急な事情が生じている可能性があります。治療構造がその時々で揺らぐことは、治療が進んでいくうえである種必然的に生じるものなのです。その意味では、構造は患者さん個人個人により異なり、個別に成立するものだというスタンスが必要です。特に治療の初期ではそれぞれの患者さんのペースを尊重し、面接頻度やセッションの時間も本人の希望を取り入れつつ話し合いながら構造をカスタマイズしつつ設定していくとよいでしょう。安心感を育むためには、早急な構造化を強いない方針が有効なこともあるのです。
1. 治療契約を結ぶ
解離性障害に限らず、心理療法を始める患者さんは治療の目的を患者さんと共有し構造を設定し、協力関係を築いていくために、いわゆる治療契約を結ぶことが奨められます。と言っても法的な拘束力を持つ契約書を取り交わす、というよりは治療におけるルールや約束事を共有するという形を取ります。具体的には、それぞれのクリニックで最初から用意されたものについて治療者の側が説明し、患者さんに読んでいただき、サインをしていただくという形を取ります。その個々の患者さんで変更が加えられたものはその旨も書き加える(空欄が埋められる)ということになります。そして心理療法の記録の最初のページに、この契約書(患者さん側にも一通コピーをお渡しします)が綴じられます。
解離性障害の患者さんの場合にもこのような治療契約を結ぶことが奨められますが、この時に注意すべきなのは、誰と契約するのかという点です。というのも治療を有意義なものとするために、契約を結ぶのに最も適切な人格を知る必要があるからです。大抵は複数の人格の中の誰かが、主人格にとって必要であると判断し、情報を集めたうえで治療を受けるための行動を取ろうとするものです。ただし治療を望むその人格が、最初の出会いで治療者の前に表れるとは限りません。
心因論 推敲 1
神経症における心因論
いわゆる神経症における心因論の持つ意味について、現代的な立場から論じるのがこの小論の目的である。「心因」という用語は、いわゆる「心因性の疾患」や「心因反応(体験反応)」などの用語や概念の形で従来精神医学において論じられてきた概念である。筆者が新人の頃は、「心因」という用語は精神医学の教科書にも掲載され、特にドイツ精神医学になじみの深い諸先輩たちには比較的馴染み深い概念として用いられていたという印象がある。しかし最近のDSMやICDでこの用語が用いられることは少なくなってきている。
そもそも「心因」とは何を意味するかについては、その基本的な考えは、いわゆる「心因反応」の中にそのエッセンスがこめられているといっていいだろう。心因反応ついては、シュナイダーが「体験反応」として以下のように書いている。「[体験反応については]そもそも数十年前にヤスパースが言っていたことだが、1.原因となる体験がなかったら、その反応体験は起きなかっただろう。2.その状態の内容、主題は、原因との関連で了解可能である。3.原因が去ればその状態も改善する。
Schneider, K (1962) Klinische Psychopathologie Sechste,
verbesserte auflage Georg Thieme Verlag. Stuttgart クルト・シュナイダー (著), 臨床精神病理学 増補第6版平井 静也 鹿子木敏範訳、1977年
この体験反応に書かれた内容は言うならば、「正常な心がストレス因により正常の心理的な反応として理解できるもの」である。しかし私たちは精神障害、精神疾患を扱っている以上、すべて正常範囲のものを扱うわけにはいかない。そこで心因性の障害は、「心因性の、つまり正常範囲として理解できる状態でありながら、障害と呼びうるほどに重症である」という、ある意味では矛盾を抱えた概念にならざるを得ない。
「心因」ないし「心因性」として以上の様な理解を前提とした上で、現代の精神医学的な知見を有する私たちが改めて「心因」ないし「心因性の」という表現を聞いた場合、何を思い浮かべるだろうか? 筆者は非常に大雑把に言って以下の三種類の病態を思い浮かべるであろうと考える。
1.いわゆる神経症と呼ばれる状態。
2.いわゆる適応障害と呼ばれる状態。
3.いわゆる疾病利得の関与が疑われる精神・身体症状(従来のヒステリー、ないしは虚偽性障害)
これらについて以下に簡単に述べよう。