結構重要な追記をした。英国学派からも恥の議論を論じようという動きが起きているという話だ。これまで英国学派はコフートなど精神分析として「カウントしない」、という姿勢のほうが強かったのである。
最近のSteiner の業績 (Steiner, 2011) もそのような動きの一部として理解することができよう。Steiner がその流れを汲むクライン派においてはフロイト以来の自己愛的構造の議論の系譜が受け継がれてきた。そこにおいて彼の立場は「不安と苦痛から自分を守るため、私たちはみな防衛を必要としている」というところにあった。しかしSteiner はこの著書で、防衛組織という待避所から出るときに直面する体験として、「embarrassment, shame and humiliation」をあげて論じる。そして「恥とそれに関連する感情について、精神分析は最近になるまであまり注目せず、クライン派の分析家はそれを無視する傾向がある」(邦訳書P4)とまで論じている。そしてこの感情が注目されたひとつの契機としての Kohut 理論やその後の恥に関する著者達(Morrison, Nathanson, Wurmser,etc) についても言及している。
Steiner, J (2011) Seeing and Being Seen: Emerging
from a Psychic Retreat. Routledge.
衣笠隆幸監訳、浅田義孝訳 見ることと見られること. 「こころの退避」から「恥」の精神分析へ 岩崎学術出版社. 2013年