解離と抑圧の混同。このテーマについて考えている。まとめると大体以下のことが起きているらしい。歴史的に見れば、ジャネは、解離は意識を経ることなく(意識外に)生じると考えた。(解離の第二の法則。解離される対象はトラウマ記憶だと考えた。)他方のフロイトは抑圧は防衛であると考えた。当人が意図的に意識したくない思考を無意識に押し込めると考えた。ブロイアーの言う意識のスプリッティング(解離)は実は私は見たことがなく、あとから調べたら必ず防衛が生じていた。(ここで言う抑圧の対象は、欲動であった。)これを絵に描いてみた。(細かいところの書き込みまで工夫しているが、ここではその詳細は省略する。)
しかし「抑圧から始まる解離だってあるではないか! 」「最初は心にあったものが押し出される形の解離もあるではないか!」という臨床家の声も強かった。つまりこのジャネの第二原則は事実上臨床家たちには受け入れられなかったのである。一つの証左としていえることは、解離には自動詞的な用い方と、他動詞的な用い方があるということだ。彼は解離した(自動詞)、彼はAを解離した(他動詞)。Dissociate が動詞形として存在する以上、そこに意図が働いているのではないか、という想定はもはや必然だったのだ。
現在では「解離する」という自動詞は、防衛の意味で用いられてる。ある意味では抑圧と同様なものとして扱われるようになっている。これは結局抑圧と解離の混同へと繋がっている。 ジャネが論じたような、第二法則に従う解離の在り方を再認識する必要がある。さもないと他者性の問題は解決することなく継続する可能性がある。