2018年12月15日土曜日

自己愛の治療 推敲の推敲 ⑤


自己愛の臨床症例と治療の継続について

 自己愛についての論文や著述を発表していると、臨床に携わっている方々から、しばしば向けられる質問がある。
「自己愛の患者は治療動機が定まらずにすぐドロップアウトをしてしまうのですが、どのように扱ったらいいのでしょうか?」
私はそのような時、「ドロップアウトをしてしまうこと自体が患者さんの自己愛的な病理を表しているのでしょうね。」と言うことが多いが、実はこの応答は決して十分とはいえない。「彼らがドロップアウトしないためにはどうしたらいいのか?」あるいは「彼らがドロップアウトをしないように治療者が配慮することは果たして本質的な治療に繋がるのだろうか?」という問題は問われ続けるであろう。要するに彼らにとっての治療動機、モティベーションをいかに捉えるかという問題である。そしてこの件について考える前提として、その患者がどの種の自己愛の病理を持っているかを知る必要があると考える。本特集の「関係精神分析と自己愛」の章でも述べたが、Otto Kernberg 的な、DSMに記載されているような自己愛パーソナリティ障害(以下NPD)の病理と、Kohut 的な自己愛の病理とでは、治療的なニーズも、その臨床的な扱われ方も大きく異なるからである。以前に私は前者をタイプ1(の自己愛の病理)、後者をタイプ2と表現した。ここでもこの分類を踏襲させていただこう。
まずタイプ1を持つ人々については、その定義の上からも、自分の問題を本格的に内省する用意はあまりないと考えていいだろう。むろん精神分析な立場から患者に解釈を加え、それにより洞察を導くという、いわば本筋の治療方針は考えうる。たとえばKernberg は自己愛の病理の背後に、幼少時に処理できなかった原始的な怒り外界へ投影されることで生じる恐怖・憎しみ・怒り・羨望、ないしは被害念慮について解釈し、洞察を促すであろうKernberg, 1975)。Herbert Rosenfeld (1987) も同様に、患者の自己愛的な態度の背後にある羨望に直面させ、とくに分析や分析家を脱価値化し援助のニーズを脱価値化する場合には直面化が必要であるとした。しかしこのような正攻法が常に功を奏するという保証はない。そもそも自分に過剰な自信を持ち、他人を自分の自己愛的な満足のために操作し、常に称賛を求めるといったタイプの人は、内面を見つめるための心理療法を求める必要性をほとんど感じないであろうからだ。治療者が満を持した解釈を施す前に、患者はつらい治療をドロップアウトしてしまう可能性が高い。
ただしもちろん彼らの人生は常に順風満帆というわけにはいかない。時には思わぬ躓きから人生の歯車が狂い、彼らの自己愛的な振る舞いは一時的に影をひそめるかもしれない。自己愛的な問題を抱えた多くの政治家、事業主、芸能人、大学教授といった人々が、スキャンダルを暴露され、不正を摘発され、罪を犯し、あるいは病を得て表舞台から姿を消すことは決して少なくない。そのような時に彼らを待っているのは失意であり、抑うつであろう。勿論彼らの多くはその状態から這い上がり、ある人は元の地位を獲得し、あるいは人生の進路を修正していくだろう。そしてそのプロセスでは心理療法家のもとを訪れ、自らの心のうちを話す人もいるかもしれない。
こうして療法家のもとを訪れたタイプ1の来談者を想定した場合、彼らにはおよそ二種類あると考えられる。彼らの一部は傷ついた自己愛を癒され、勇気付けられることによりまた人生に向き合い始めるだろう。その治療プロセスにおいて主として話し合われることは、彼らがいかに不運であったか、あるいは他人から誤解や嫉みの対象となり、人に陥れられてしまったかが主たるテーマになる可能性が高いだろう。そして自己愛の傷つきが癒された彼らは、もはや心理療法を必要としなくなる可能性が高い。
しかしタイプ1の来談者のもう一つの種類は、自らを省み、失敗の原因を自分自身に求めることで人生を立て直していくかもしれない。その中である種の洞察を得るとしたら、それはおそらく「自分の利益や満足だけを考えず、相手の気持ちを思いやることが大切だ」ということかもしれない。さらに具体的には「自分は他者に対してこのような振る舞いをしていたことで、あの様な気持ちにさせてしまっていた」という具体的な気付きを得るかもしれない。この種の治療的なかかわりはいちおう精神療法的な形をとるであろう。そしてそのような洞察を獲得することは、精神分析的ななかかわりを通して促進されるかもしれない。彼らは自己中心的な振る舞いを反省し、他者の気持ちになり、他者を評価し、力を与えることを重視するかもしれない。
しかしここで考えてみよう。この「相手の気持ちを思いやるべきである」という洞察はどの程度本物だろうか? 問題をさらにひとつ掘り下げてみよう。そもそも「相手の気持ちを思いやれない」原因としては二つの可能性があるはずだ。一つはその相手と類似の体験を自らが持ったことがないために十分に想像力が働かない場合である。
ある高名な医師が次の様な述懐をしているのを読んだことがある。(記憶を辿るだけのために、詳細は違っているかもしれない。)
「自分は老境になるまで入院を必要とするような身体疾患にかかったことがなかった。しかしかなり高齢になってようやくそれを体験することで、初めて患者の気持ちが本当にわかった気がする。」
かなり専制君主的な振る舞いで知られていたこの医師は、病者の立場に身を置くことで、初めて「相手の気持ちを思いやるべきである」という洞察を深めることが出来たのであろうし、そこには彼自身に何らかの変化の余地があったということになろう。ただしもちろんこの医師が感じていたであろう自分自身の変化が、どの程度周囲の人に感じ取れるものであったかは定かではないが。
この例は相手の立場を体験することにより洞察を得た例として一応考えることが出来るだろう。ただし人生のこの時期までその体験が先延ばしにされたのは、相手の立場を思いやれる想像力が最初から不足ないし欠如している可能性もあろう。その意味では以下に述べる、「相手の気持ちを思いやれない」もう一つの原因を有している可能性がある。それは本来的に相手に共感する能力が欠如している場合である。この場合は体験から得られた「相手を思いやるべきである」という洞察はより表面的なものでありかねない。
ただしそれでも洞察は洞察である、という考え方も成り立つだろう。例えば彼の自己愛的な振る舞いが部下や同僚の造反を誘い、仕事を追われた場合を考える。彼は「私が彼らに恨みを持たれている可能性について思いが至らなかった」という教訓は得るかもしれない。しかしそれは今後の処世術の一つとして組み込まれては行くものの、部下の心の痛みを察してのものではない可能性がある。その場合はこれは「教訓」というよりは学習と考えた方がいい。認知行動療法的にはこれはありであろうが、力動的精神療法を旨とする治療者にはこれは「洞察」とは呼べないものと判断されても仕方がないであろう。
以上タイプ1の自己愛を有する人の治療動機について考えたが、決して彼らの治療に対して悲観的な意見を述べたいわけではない。それらの人たちにはそれなりの人生があり、それを病理と見なして変えようと思う方もまた傲慢なのかもしれない。むしろタイプ1のような人たちに翻弄され、犠牲者になったり、自分を見失いがちになっている人々のことを心配すべきなのであろう。その件についても「関係精神分析と自己愛」で述べたとおりである。
次にタイプ2の自己愛の病理について考えてみよう。このタイプの来談者はおそらく養育環境において自らの自己愛を支え、育ててもらう機会を与えられず、そのために自尊心が低く、自分に自信が持てず、安定した確かな自己イメージを持てないでいる人々と理解される。タイプ1の患者とは異なり、人間関係を営むうえで生じてくる様々な問題について自分の責任と感じる傾向にあろう。おそらく自らを省みることについてはむしろ過剰と言ってもいい。Kohut が論じたように、治療者は来談者に対して自己対象機能を果たす役割を通して、来談者自らが自己対象機能を獲得していくことになる。治療関係は本人の精神的な健全さを保つためにも大きな役割を果たし、患者は治療関係を維持することに力を注ぐことになるだろう。こうしてタイプ2の患者さんが治療が中断する可能性は、タイプ1の患者さんに比べてはるかに低いものと考えられる。実際に治療者の果たす自己対象機能はある意味では患者の人生の維持にとって大きな意味を持ち続けるために、治療関係はむしろ長期に及ぶ可能性がある。
この様に考えた場合、二つのタイプによって患者の治療関係の用い方は全く異なることになる。しかしおそらく両者の治療論を結ぶ決め手は「関係精神分析と自己愛」でも述べたとおり、恥の体験を通して彼らを理解することであろう。タイプ1は、みずからを軽んじられて恥をかかされることにきわめて敏感になる。プライドが高く人にも丁重に扱われるべきだと思っているタイプ1の人は、低く見られた、軽んじられたと感じた際に一瞬恥を味わった後に、それを怒りに転化して相手にぶつけるだろう。すなわち彼らにとっての本質的な治療は恥を自覚し、体験することに向けられるのである。どんなに強がっているタイプ1にも、弱かった時の自分がどこかに眠っている。それを刺激されかかったときは全力でそれを跳ね返すために、恥を実際に感じるには至らない。でももしそれを体験する瞬間があったとしたら、それはタイプ1の自己愛の病理に到達する突破口かもしれない。もちろんそれがいかに難しい課題なのかは、すでに検討したとおりである。
それに比べてタイプ2の場合には、もともと恥ずべき存在として自分を見ているところがある。そして対人場面でその低いプライドがさらに低められることがあった場合には、さらに恥じ入り、相手を怒るどころかさらに引きこもってしまうであろう。彼らは過剰な恥の体験から救い出されなくてはならないのである。