2018年11月8日木曜日

PD推敲4

もう一度最初から書き直した。

パーソナリティ障害の概念を問い直す
 パーソナリティ障害(以下PD)の概念について、これまでの私自身の臨床経験から再考を加えたい。その骨子を述べるならば、他の多くの疾患概念と同様、私たちは日常臨床の中でPDをあたかも実体が伴っているかのように扱う傾向にあるが、PDの概念は常に臨床家がその意味を問い直し、その限界を意識しながら用いるべきなのである。
私たちは一般に人の性格にはいくつかの特徴があり、それにしたがってある程度の分類できると考えている傾向にある。DSM-IVPDについて以下のように定義していた。
「その人の属する文化から期待されるものより著しく偏った,内的体験および行動の持続的様式(認知、感情性、対人関係機能、衝動の制御の様式から二つ以上)」(DSM-IV)。
そしてその様式が「持続的」である以上、そこにある遺伝的な素因、あるいは幼少時の成育環境がその重要な決定要因だと考えるであろう。このようにPDのいくつかの典型的なタイプを考える立場がいわゆる類型モデルで、古くはシュナイダーが10に分類したもの(意志薄弱者、発揚者、爆発者、自己顕示者、人間性欠落者、狂信者、情緒易変者、自信過小者、抑鬱者、無気力者)が知られ、1980年のDSM-IIIに掲載された10のPDの分類は、現代のDSMに引き継がれている。それらは大まかにその人の行動上の特徴を特に有するもの、感情の特徴を有するもの、思考の特徴を有するものという三つのクラスターに分けられたものである。
 この類型モデルとは別に、人格がいくつかの特性により構成されるものとみなし、それぞれの量的差異からそれを示す、いわゆる特性モデル trait model が存在する。DSM-5の準備段階では、類型型に変わって掲載される公算が強かったが、実際には巻末の「新しい尺度とモデル」の章に、「パーソナリティ障害群の代替DSM-5モデル」として提示されるにとどまっている。他方2018年に発刊されたICD-11 におけるPDはこの特性モデルに大幅に全面改訂されており、否定的感情 negative affectivity、脱抑制disinhibition、離隔detachment、非社会性 dissociality、制縛性anankastia に分かれ、それとは別個にボーダーラインパターンborderline pattern が掲げられている。
このようにPDの診断基準はICDDSMで大きく分かれた形となっている。は今後近い関係になっていくことが想定され、またそれが望ましいのであろうが、実際にはこのPDの分類に関しても袂をわかってしまった形になっている。DSMの改訂が今後10年は出版されないとすると、なんと50年間この10PDは変わらないということになる。ただしこの矛盾はPDを臨床的に用いることに特有の難しさを反映しているともいえる。人は他人の性格を一種のラベリングにより識別するところがある。それは大雑把で独断的でありながら、患者の特徴抽出には欠かせない部分がある。他方の特性モデルは、人の性格をより正確に描写することに適してはいるものの、その人の全体的な印象を的確に伝える力に乏しい。DSMICDの齟齬はその問題が形となったものと考えられる。

PDの類型分類に関して私が持っていた疑問
さてここからはこれらのPDの診断基準の移り変わりにある意味では翻弄される一臨床家としての考えを述べてみたい。まずDSMに見られるような10の類型分類については、特に不満があったわけではなかったが、実際にはBPD (ボーダーライン)ASD (反社会性)NPD(自己愛性)、依存性、回避性の4つのPD以外には、あまり臨床的に出会わないという印象があった。(これに関してはDSM-5に掲載された「代替案」で境界性、反社会性、自己愛性、回避性、強迫性、統合失調型だけが残されたことを考えると、私の考えはあたらずとも遠くはなかったように思える。)
まず私が身を持って体験したのは、BPDに関する捉え方の再考が必要であるということだった。臨床を続けていくうちに徐々に Kernberg 流のBPDの概念に疑問を感じるようになった。治療者側にとって手のかかる患者にBPDという診断を下す傾向が目に付くようになったのである。またトラウマを受けた患者の自傷行為や解離症状についても、それをアクティングアウトと捉えてBPDのラべリングが行われる傾向も見られた。BPDを一律にトラウマに起因するものとして捉える傾向にあるJ.Herman (1990??) に賛同を感じることはあまりなかったものの、その視点が全面的に欠けているようなBPD観も問題であると感じた。そうしてもう一つ、BPD的な振る舞いをする人の一部は、やがてそれらしさが影をひそめ、卒業していく様子を体験した。そこにGundersonZanarini らの研究、つまり数年後に大多数のBPDの患者は寛解するという事実を知り(Zanarini, et al, 2003)、それがより確信に変わった。またそれをもとに、私たちの多くは人生の岐路で一種の反応「ボーダーライン反応」(岡野、2006)を起こすが、それをBPDと決め付けることはできない、という趣旨の論考を世に問うた。このようにBPDの中にはトラウマに起因したもの、むしろ第一軸(DSM-Ⅲ~Ⅳ)的な疾患として捉えるべきであるとの感を強くした。
Zanarini MC1, Frankenburg FR, Hennen J, Silk KR (2003) The longitudinal course of borderline psychopathology: 6-year prospective follow-up of the phenomenology of borderline personality disorder. Am J Psychiatry. 2003 Feb;160(2):274-83.
岡野憲一郎(2006) ボーダーライン反応で仕事を失う.こころの臨床alacarte 2565-69 
次にNPDについてであるが、人生早期から見られるものであるというPDの定義とは裏腹に、この病理が成人後、あるいはむしろ人生の後期になって明確に見られるようになった症例を多く体験した。社会で一定の地位を得て、自己愛の肥大に歯止めが利かなくなった場合に生じる病理、という考え方がより理にかなっているように思えるようになったのである。それは私の「自己愛は制限するものがなければ肥大していく」という「自己愛の風船説」(岡野、2017)という形で提案された。また期せずして英国から伝わってきたhubris syndrome (OwenDavidson, 2009) (ヒューブリス症候群、ないしは傲慢症候群片田、2016)に同様の考えを見ることとなった。
片田珠美 (2016) オレ様化する人たち あなたの隣の傲慢症候群.朝日新聞出版
David Owen, D. Davidson, J (2009)Hubris syndrome: An acquired personality disorder? A study of US Presidents and UK Prime Ministers over the last 100 years. Brain, Volume 132, Issue 5, 1 May 2009, Pages 1396–1406,
岡野 憲一郎 (2017) 自己愛的(ナル)な人たち 創元社
三番目はスキゾイドPDについてである。近年の自閉症スペクトラム障害(以下、ASD)についての研究が進むにつれ、それとスキゾイドPDのオーバーラップの問題が多く論じられている。言うまでもなくASDは発達障害のひとつに数えられ、PDとは異質のものとして扱われていた。しかし第二軸の定義は本来「パターンが安定し、長期にわたって持続し、その始まりは遅くとも思春期や早期成人期にさかのぼることができる」病理である。ましてや幼少時にさかのぼるとしたら、発達障害は第二軸に入らないこと自体が矛盾するとも論じられている(Lugnegård, T,et al, 2012)。その意味でDSM-5で多軸診断が廃止されたのも納得できよう。
Lugnegård, T, Hallerbäck,MU, Gillberg, C. (2012) Personality disorders and autism spectrum disorders: what are the connections? Comprehensive Psychiatry.v53: 333-340.
Lugnegårdらは、ASDの基準を満たす54名の早期青年期の人々を対象にして研究した。すると14人がスキゾイドPDを、7名が回避性PD10名が強迫性PD1名がスキゾタイパルPDを満たし、ボーダーライン、自己愛、依存性、反社会性、演技性PDを満たした人はいなかったという。つまりASDの中でスキゾイドPDの診断基準を満たす人々が一番多いということになる。
この件に関しての私の考えは、それぞれ由来の違った二つの障害(一方は統合失調症に近縁のものとして出発したスキゾイドPD、もう一方は深刻な自閉症ほどではないものの、その軽症型として見出されるようになってきたアスペルガー等のASD)が徐々に接近し、臨床的には区別がつかなくなっている状態ではないかということである。さらには個人的には、従来考えられていたスキゾイドPDの大部分が実はASDを見ていたのではないかと考える。人に関心がない、感情を欠いた、スタートレックのミスター・スポックのような人間は実はきわめて稀少ではないだろうか。一見スキゾイドPDに見える人々は、実は物や秩序により大きな関心を持ち、人は複雑でわずらわしいためにあまりかかわりを持とうとしない(でも同時にすごくさびしがり屋の)ASDが大半ではないか、と私は考える。
このようにBPDNPD,スキゾイドPDについて、それはPDの類型として維持する根拠を徐々に失っているということが出来よう。しかし逆にある種の研究対象となっているPDが反社会的PD (以下ASPD) であるので、本稿でこの問題に触れたい。