2018年10月20日土曜日

C-PTSDについて 3


CPTSDと精神分析的な治療

 実はこのテーマについてはいろいろ論じて来たので、それらのダイジェスト版という感じになるだろう。
外傷性精神障害に対しては認知行動療法的なアプローチが種々提唱されているが、力動的なアプローチにもそのメリットが少なくない。精神分析はその他の心理療法に比べてもより深層にアプローチし、洞察を促すものであるというのは確かなことである。ただし伝統的な精神分析理論をトラウマを体験した患者に応用するためには、それなりの理論的な変更が必要になるだろう。
 フロイトが創始した伝統的な精神分析は、残念ながら「トラウマ仕様」ではなかった、ということが出来よう。すなわちトラウマを経験した患者に対して治療を行う論理的な素地を十分に有していてなかったということだ。フロイトは1897年に「誘惑仮説」を撤回したことから精神分析が成立したという経緯がある。フロイトはトラウマにより精神障害が引き起こされるという単純な理論ではなく、人間のファンタジーや欲動といった精神内界に分け入ることに意義を見出したが、この経緯もあり、伝統的な精神分析理論においては、トラウマという言葉や概念は、ある種の禁句的なニュワンスを伴わざるを得なくなった。


しかしその後精神分析の世界でも多くのことが起きた。その一つは愛着理論の発展であろう。愛着理論は前世紀半ばのJohn BowlbyやRené Spitzにさかのぼるが、トラウマ理論と類似の性質を持っていた。それは精神内界よりは子供の置かれた現実的な環境やそこでの養育者とのかかわりを重視し、かつ精神分析の本流からは疎外される傾向にあったことである。乳幼児研究はまた精神分析の分野では珍しく、科学的な実験が行われる分野であり、その結果としてMary Ainthworthの愛着パターンの理論、そしてMary Mainの成人愛着理論の研究へと進んだ。そこで提唱されたD型の愛着パターンは、混乱型とも呼ばれ、その背景に虐待を受けている子や精神状態がひどく不安定な親の子どもにみられやすい(van der Kolk, 2014)。
最近精力的な著作を行うAlan Schoreの「愛着トラウマ」(Schore, 2009) の概念はその研究の代表と言える。Schoreは愛着の形成が、きわめて脳科学的な実証性を備えたプロセスであるという点を強調した。ショアの業績により、それまで脳科学に関心を寄せなかった分析家達がいやおうなしに大脳生理学との関連性を知ることを余儀なくされた。しかしそれは実はフロイト自身が目指したことでもあった。
トラウマ仕様の精神分析理論の提唱
以下にトラウマに対応した精神分析的な視点を提唱しておきたい。私はそれらを以下の5点として提示する。

1.         トラウマ体験に対する中立性
2.         「愛着トラウマ」という視点
3.         解離の概念の重視
4.         関係性、逆転移の視点の重視
5.         倫理原則の遵守

1点は、トラウマ体験そのものに対する中立性(岡野、2009)を示すことである。ただし治療者が中立的であるということは決して「被害者であるあなたにも原因があった」、「加害者にも言い分がある」という態度を取ることではない。「何がトラウマを引き起こした可能性があるのか?」、「今後それを防ぐために何が出来るか?」について治療者と患者が率直に話し合うということである。被害に遭った患者の話を聞く立場として、治療者が患者に肩入れをして話を聞くことはむしろ当然のことと言わなくてはならない。それなしでは治療関係そのものが成立せず、治療者が上述の意味での中立性を発揮することに意味がある地点まで行き着けないであろう。
たとえば患者が過去の虐待者に対して怒りを表明しているという場合を考えよう。もしそれに対して治療者が中立性を守るつもりで終始無表情で対応した場合,患者は自分の話を聞いて一緒に憤慨してくれない治療者に不信感を抱くかもしれない。患者は場合によっては治療者がその虐待者に味方していると感じるであろう。もしそれにより治療者と患者の間の基本的な信頼関係に重大な支障をきたすとしたら,そのような対応は非治療的なものと考えなくてはならない。したがって患者によっては古典的な分析的アプローチに固執せず,治療者が必要において態度表明や感情表現をすることが,重要な場合があるのだ。
 しかし治療者が感情表現をすることが治療的であるとばかりは言い切れない。患者によっては,治療者が一切の感情表明をひかえて受け身的に話を聞いてもらえることを何よりも安全に感じる場合もあるかも知れないのである。このように個々の患者の特殊性を十分に理解し,それに柔軟な対応を示す姿勢こそが重要なのであり,そのような態度が真の意味での中立性と言えるだろう。
2点は愛着の問題を重視し、より関係性を重視した治療を目指すということである。その視点がこの「愛着トラウマ」に込められている。このような視点はトラウマを扱う臨床家が一つの素養として持っておくべきだろう。特にCPTSDの場合は、その定義の中に愛着レベルでの問題が生じていることが示唆されている。
フロイトが誘惑説の放棄と同時に知ったのは、トラウマの原因は、性的虐待だけではなく、実に様々なものがある、ということであった。その中でもとりわけ注目するべきなのは、幼少時に起きた、時には不可避的なトラウマ、加害者不在のトラウマの存在である。臨床家が日常的に感じるのは、いかに幼小児に「自分は望まれてこの世に生まれたのではなかった」というメッセージを受けることがトラウマにつながるかということだ。しかしこれはあからさまな児童虐待以外の状況でも生じる一種のミスコミュニケーションであり、母子間のミスマッチである可能性がある。そこにはもちろん親の側の加害性だけではなく、子供の側の敏感さや脆弱性も考えに入れなくてはならない状況である。愛着トラウマの概念にはこのような広い意味でのトラウマが幼少時に生じて将来の自己概念や関係性に影響を与えているという視点を提供する。
3点目は、解離の概念を理解し、解離・転換症状を回避することなく必要に応じて扱うという姿勢である。最近では精神分析的な治療のケース報告にも解離の症例は散見されるが、フロイトが解離に対して懐疑的な姿勢を取ったこともあり、なかなか一般の理解を得られないのも事実である。解離を扱う際の一つの指針として挙げられるのは、患者の症状や主張の中にその背後の意味を読むという姿勢を、以前よりは控えることと言えるかもしれない。抑圧モデルでは、患者の表現するもの、夢、連想、ファンタジーなどについて、それが抑圧し、防衛している内容を考える方針を促す。しかし解離モデルでは、たまたま表れている心的内容は、それまで自我に十分統合されることなく隔離されていたものであり、それも平等に、そのままの形で受け入れることが要求されると言っていいであろう。
4点目の関係性、逆転移の重視については、患者がいわゆる関係性の重視は、患者がいわゆる外傷後成長(post-traumatic growth, PTG)(Tedeshi, RG, 2004)を遂げるかどうかを占う上でも重要となる。トラウマを体験した人との治療関係においては、それが十分な安全性を持ち、また癒しの役割を果たすことはきわめて重要である。トラウマを扱うための治療関係が患者に新たなストレスを体験させたり、支配-被支配の関係をなぞったりする事になれば、それは治療的な意味を損なうばかりではなく、新たなトラウマを生み出す関係性になりかねない。精神分析的な治療においては、患者の洞察やこれまで否認や抑圧を受けていた心的内容への探求が重要視されるが、それは安全で癒しを与える環境で十分にトラウマが扱われた上でこそ意味がある。外傷後成長は癒しの上にしか生じないのである。
もし治療者が患者が洞察を得ることを目指すことにばかり心を傾けることで、患者のトラウマ体験に対する共感やその他の支持的なかかわりをおろそかにすることは許されない。その意味では治療関係を重要視することは、そのまま治療者の逆転移の点検というテーマに直結するといっていいだろう。トラウマを受けた患者を前にした治療者は、しばしばそのトラウマの内容に大きな情緒的な影響を受け、それを十分に扱えなかったり、逆にそれらへの患者の直面化を急いだりする傾向が見られるが、いずれも治療者自身の個人的な情緒的反応が関係していることが多い。
5点目の倫理原則の遵守については、もう言わずもがなのことかもしれない。特にトラウマ治療に限らず、精神療法一般において倫理原則の遵守は最も大切なものだが(岡野、2016)、ともすると治療技法として掲げられたプロトコールにいかに従うかが問われる傾向がある。
 この倫理原則の問題はトラウマ治療に特に問題とされることではない。トラウマを体験した患者の場合に自分がまた被害に遭うのではないか、搾取されるのではないかという懸念はきわめて強く、それは治療者にも向けられる可能性が高い。治療者の学問的な好奇心に従った質問、症例報告の承諾の際のやり取りなどが治療関係にネガティブに作用することのないよう、最大の配慮を行わなくてはならない。