2018年10月4日木曜日

関係論と自己愛 1

関係精神分析における自己愛パーソナリティ障害の問題

少しチャレンジングなテーマだとは思うが、がんばって論じてみたい。関係精神分析と自己愛の関係について考えるとしたら、まずコフート理論がどのように反映されているかということだが、文献を探る前に私の頭にあることを書いておこう。
私がまず関係論から見た自己愛について論じるとしたら、それは自己愛障害という診断をあまり下さないという方向性にあると思う。というのも私はNPDはとても pejorative (見下しの)な概念だと思うからだ。ケース検討会などで「この患者は自己愛だ」ということをよく聞く。でもそれは多くの場合、その人を非難しているような響きを伴う。治療者の言うことが耳に入らず、自分の話を延々と続けると、自己愛(=自己チュウ)というラベルを臨床家は貼り付けたがる。ところがそのような臨床家のほうがよほど自己愛だったりするわけだ。だから自己愛とは臨床家にとって使い勝手のいいお手軽な概念ということにもなってしまいかねない。NPDはこのように便利すぎる概念なので、非常に注意深く用いる必要があるだろう。最初から鼻息が荒いな。
ただしここで言うNPDはあくまでDSM的な自己愛の議論だ。コフートが議論したNPDとなると、ぐっと意味が違ってくる。コフートは自己の障害は自己を照り返してくれる存在を持たなかった結果としておきてくる。DSM的なNPDが自己をひけらかす、傲慢、自己中心的、という意味だとすると、コフート的なNPDは人からの非難を怖れて自己をひけらかすことができずにいた人たち、ということになり、両者は実はかなり違う。ニュアンスとして反対方向にあると言っていい。グレン・ギャバードが提唱したとされる「無関心型」と「過敏型」の自己愛の区別は、ある意味では正反対の意味を持ち、後者は結局回避性PDのことだ、という議論になっているが、コフート的なNPDはむしろ後者に近いと言っていい。自己愛は自己愛でも薄皮の自己愛なのだ。つまり自己を少し出しただけでもう周囲の反応を敏感に感じ始める。ある意味では自己が出される以前に、すでにもうそれ以上出すことを躊躇し始めている。だからコフート的なNPDは外からはぜんぜん自己愛的に見えないということにもある。ただその心の中をのぞくと、自意識だけは過剰なほどに持っているということがわかるだろう。
ではコフート的なNPDの場合は、治療に訪れるだろうか。もちろんそのはずである。治療において初めて自分を受け入れられたと感じるかもしれないからである。まとめるとDSM=カンバーグ的なNPDは治療にはつながらず、コフート的なNPDなら治療が極めて重要な意味を持つ、ということになるだろうか。