2018年10月27日土曜日

関係論と自己愛 2

何日か前に一度書き出したが、もう一度仕切りなおしだ。

関係精神分析における自己愛パーソナリティ障害の問題

自己愛の問題は精神分析を学ぶ私たちにとって極めて重要なテーマであり続けるが、その内容は歴史的に確実に変化している。その始まりにおいてフロイトはリビドー論に根ざした一者心理学的な自己愛を論じたわけであるが、その後の自己愛理論は関係性の中で捉えなおされて来ていると言っていい。その意味で自己愛についての理論の変遷は、精神分析理論の変遷と歩調を合わせてきたといっていいだろう。そのいわば最終形であり最先端に位置しているのが関係論的な自己愛理論ということが出来る。
関係論的な自己愛の理論の一つの特徴としては、それを病理の表れとみなすことには消極的であるという点があろう。そもそも私たちが通常考える自己愛パーソナリティ障害(以下NPD)はとてもpejorative(見下した)な概念である。そこには境界性パーソナリティ障害ほどではないとしても、当事者を非難し脱価値化するというニュアンスがある。治療者の解釈を受け入れず、自分についての関心事を優先的に語る患者に対して、臨床家は自己愛的というラベルを貼りたがる。ところがそのような姿勢に現れている可能性のある臨床家自身の自己愛的な問題については、通常は問われることはない。その意味で自己愛の問題ないしNPDは臨床家にとってかなり好都合な概念になってしまいかねない。その意味で患者の自己愛の病理について論じる際は、臨床家は自らの逆転移を慎重に秤にかけながら進める必要があるだろう。言葉を変えればNPDの診断を下すことそのものに、その臨床家の関係論的な姿勢が問われているのである。
ただしここで私が想定しているNPDはあくまで一般的に論じられているものであり、DSM的な定義に近い、あるいは「カンバーグ的」なそれである。すなわち自己中心性や誇大的な自己イメージ、あるいは他者を自己のために利用する態度が特徴とされるものである。しかしHeinz Kohut (1971)の自己愛理論の登場により、自己愛は関係論的な文脈で論じなおされる素地が築かれたということができる。
Kohut, H.: (1971) The Analysis of the Self. Int. Univ. Press, New York.(水野信義、笠原嘉監訳、自己の分析、みすず書房、東京、1994)
 Kohutによれば、人間は自己の存在を照り返し、また自らが理想化の対象となるような存在を必要としている。養育環境においてそれを十分に提供されなかった場合には自分の存在に自信が持てず、安定した確かな自己イメージを持てないでいる人々が自己愛の障害を有することになる。それも便宜的にNPDと表記するとしたら、それはこれまで論じたDSM的なそれとはニュアンスが大きく違ってくる。両者はある意味で対極的な意味を持つといっていいだろう。Kohutの自己愛理論の登場により、自己愛の問題は恥の議論を含みこむこととなった(Morrison, 1989)。後にGlen Gabbard (1989)が自己愛を「無関心型」と「過敏型」とに分類して論じたが、それに従うならば、DSM的なそれが前者であるのに対して、Kohutのそれは後者に相当する。自己愛は自己愛でも「薄皮の」(thin-skinned, Broucek, 1991)自己愛なのだ。つまり自己を少し出しただけでもう周囲の反応を敏感に感じ始める。ある意味では自己が出される以前に、すでにもうそれ以上出すことを躊躇し始めている。だからコフート的なNPDは外からはぜんぜん自己愛的に見えないということにもある。ただその心の中をのぞくと、自意識だけは過剰なほどに持っているということがわかるだろう。
Morrison, A. (1989) Shame. Underside of Narcissism. The analytic press. Hillsdale, New Jersey.
Gabbard, G.(1989)  Two subtypes of narcissistic personality disorder. Bulletin of the Menninger Clinic. 53 (6).
Broucek, F.( 1991) Shame and the Self. The Guilford Press, New York,.