2018年10月22日月曜日

関係論と自己愛 2

関係論と自己愛について書き継ぐ。


ここから少しミッチェルの力を借りよう。少し古いが、Freud and Beyond (Stephen Mitchell and Margaret Blank, Basic Books, 1995) の Narcissism の項目を読んでみる。これ自体は晩年のミッチェルの見解がふんだんに描かれているはずだ。
著者達はコフートの出現により起きたことは、おそらくそれまでのフロイトの自己愛理論とは一線を画す、画期的なものであったという。リビドー論的に自己愛の問題を考えていたフロイトにとっては、対象へのリビドーと、自己へのリビドーは反比例するものだった(p.150)リビドーはアメーバに例えられ、外の対象に伸ばしていた触手を引っ込めることで、エネルギーは中央に溜まる。そこには対象関係かナルシシズムかという二者択一的な図式があったのである。
しかしコフートはおそらく自分自身の体験から、それとは異なる自己愛の図式を考えるようになった。それは人間が生まれ落ちた時から対象とのかかわりが存在し、それにより満たされる自己愛という別の在り方であった。
有名なコフートの「Mr.Z の二つの分析」という論考において、コフートは最初の分析で Mr.Z に古典的な解釈を行ったという。彼はMr.Zが母親から過剰な注目を浴びてスポイルされたという指摘をした。それにより彼は過剰な誇大性を感じさせられたというわけである。ところが後に行った二回目の分析で、コフートは Mr.Z の母親が本当の意味で彼の自己愛的なニーズを満たしていなかったという点を見出す。
この Mr.Z は実はコフート自身をモデルにしていたという説が有力だが、その真偽はともかく、このコフートのアイデアはある種の健全な自己愛についてであり、それが満たされない時に病的な自己愛に発展するという視点であった。これは自己愛を最初から病的なものとみなしたフロイトとは一線を画す姿勢であったといえる。
Mitchell らがこの点で強調しているのは、このコフートの視点は、実は乳幼児研究において見出されている子供の成長と非常に通じる面があったということである。たとえばダニエル・スターンが考えていたことに通じるという。すなわち人は他者と積極的な交流を行う時と、自分自身に沈潜することがある。そして自己愛の在り方も両方あるというわけだ。なるほど、コフートの貢献をそのように理解するというわけか。
さすがMitchell。一者心理学と二者心理学の融合を彼自身が1995年の段階で言っている。ここで冒頭の問題に戻る。関係論においては自己愛の問題を病理と捉える傾向は従来の精神分析的な考え方に対してより少ないであろう。無論病的な自己愛を考えないわけではないが、その背後にある健全で発達に根差した自己愛の重要性を強調する。しかしそれは学派の違いからくる問題ではなく、愛着理論や乳幼児観察に根差した、あるいは歩調と合わせた考え方と言えるのである。