2018年8月15日水曜日

他者性の問題 5

人格の複数化という視点の弱さが、他者性の減債につながっているというのが私の主張であるが、その原因の一端は精神分析にあるだろう。というのも精神分析ではスプリッティングという概念を用いることで、「心が分かれる、という考え方はもうすでに十分取り入れていますよ。他に何が必要なのですか?」というエキュスキューズを与えてしまっているわけなのだ。オニール先生は、Brook (1992) の説を引用し、フロイトにおいては心が分かれるという発想が三つみられるという。そのうちの第一が解離的なスプリッティング。これはフロイトが早くから棄却してしまっている。自分はそんなもの見たことがない、と。だから論外だ。この第一の候補を捨ててしまっている点で、精神分析の世界に本当の意味でのスプリッティングは存在しないことになる。
私は思うのだが、人格の複数化の一番の根拠は、その同時存在性ではないか。ある話題について話していると、別の人格が突然訂正に入って再び引っ込むということは、話している人格と、それを聞いている人格が二つ、同時進行していると考えざるを得ない。これは二つの心が葛藤している、両価的である状態とは似て非なるものである。両価的である場合は、話者が交代することはない。Aと考える、しかしそれとは逆のB という考えもありうる、という状況への困惑を体験するのは通常一つの主体である。しかし解離の場合には、Aを主張している主体は、Bを持っている別の主体の気配を感じるのであり、次の瞬間にはそちらの主体への移行が起こる。これは両者の同時進行的な性質を表しているのである。
結局何が言いたいかと言えば、分析的なスプリッティングの概念は、人格の複数化 multiplication とは全く異なるものなのだ。しかし人格の分割化 division を解離の主体とした場合は、一つの心が二つに分かれるという意味では、分析的なスプリッティングとかなり似てくる。「だってもともとのAさんが、A’さんとA’’さんに分かれただけでしょ? 解離のスプリッティングも分析的なスプリッティングと同じじゃないですか?」 と言われてしまうと、この問題について特に深く考えていない人にとっては、「そういうことか・・・・」で終わってしまいかないのだ。これが解離についての理解の弱さを決定的なものにしてしまっているのである。