これについては前に書いたが、復習の代わりだ。そもそもブロイラーが精神分裂病(統合失調症) schizophrenia を言い出した時、その「分裂」」とは結局はスプリッティングのことだったことはあまり知られていない。そしてもっと知られていないのは、ブロイラーが描いた患者像の多くは、解離的であったということだ。当時はDIDという概念も分裂病の概念も明確にはなかったわけだから、彼は両方をごっちゃに見ていた可能性がある。その結果自我が分裂することが統合失調症の主たる病理であるという定説が生まれた。何しろ名前がそれを表しているからだ。
私が示したいのは、確かに統合失調症では、「自我の分裂」らしきものが起きている。しかしDIDにおいては、その種の分裂は起きていないということだ。その代りそこでの病理はもう一人(以上)の自我の出現であり、それに対するおそらく「正常な」反応なのである。
私が示したいのは、確かに統合失調症では、「自我の分裂」らしきものが起きている。しかしDIDにおいては、その種の分裂は起きていないということだ。その代りそこでの病理はもう一人(以上)の自我の出現であり、それに対するおそらく「正常な」反応なのである。
思い出していただきたい。確か一月ほど前だったが、ヤスパースの自我の定義を次のように書いた。
1. 自分自身が何か行っていると感じる「能動性の意識」
2. 自分が単独の存在であると感じる「単一性の意識」、
3. 時を経ても自分は変わらないと感じる「同一性の意識」、
4. 自分は他者や外界と区別されていると感じる「限界性の意識」
これらは「能動性、単一性、同一性、限界性」の4つにまとめることができよう。ところでこんな議論、英語圏でもなされているのだろうか?気になり始めた。ということでネットを探っていくと、ここで英語の文献を見つけた。Harvard Review に載っている (Disordered Self in the Schizophrenia Spectrum: A Clinical and Research Perspective Josef Parnas and Mads Gram Henriksen) という論文 (これも無料でダウンロード可能だ。)
この論文はヤスパースの論文の英語版を引いている。Jaspers K; Hoenig J, Hamilton MW, trans. General
psychopathology. London: John Hopkins University Press, 1997 [1913].これを読んでいくと、出てきた。こんな文章だ。
The basic
sense of self signifies that we each live our conscious life as a
self-present, single, temporally persistent, bodily, and demarcated (bounded) subject
of experience and action.
この下線部が、能動性、単一性、同一性、限界性、に対応することになる。そうか、やはり英語圏でもしっかりヤスパースの議論は紹介されているのだ。ところが一つ気になるのはこの自我障害を、英語では disordered
self (自己の障害)としているのだ。え?「自我 Ich 」は、ego じゃないの、ヤスパースはあくまで Ich の障害、として統合失調症を描いていたはずだが。と言いたいところだが、Ich を ego(自我)とするのは、精神分析の決まりごとであり、精神医学ではそうとは限らない、ということらしい。精神医学では一般にドイツ語の Ich はself と訳されるらしいということだ。まあこの方がわかりやすいけれど。それとこの文献で書かれていることは、ヤスパースはそもそも統合失調症では、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」が侵されている、と書いてあるというのだ。やはりここも解離の自己の問題とはかなり異質、より深刻、ということになる。ヤスパースにしてみれば、この能動性、単一性、同一性、限界性がすべて問題となっている、深刻な危機的状態が統合失調症、ということなのだろう。
私が示したいのは、極端な話、自他の区別は解離においてはついている、あるいは統合失調症のような形では冒されていない、ということなのだ。
私が示したいのは、極端な話、自他の区別は解離においてはついている、あるいは統合失調症のような形では冒されていない、ということなのだ。