2018年8月9日木曜日

他者性の問題 2


私見では別人格の「他者性」の軽視は、解離という考え方そのものの誤解に起因している。解離とはブロイアー的な意味でも、ジャネ的な意味でも、心がトラウマ的な状況で分裂したという考え方に基づく。本来は連続していた心がA,Bの二つに分かれたという考え方だ。そうであれば、AにとってBは片割れということになる。もともとは一体になっていたわけであるから、他者ではない、という理屈になる。しかし私はこの意識のスプリッティングという考えそのものに疑問を挟まざるを得ない。トラウマにより心がスプリットする、というのはブロイアーが言い出したわけだが、本当だろうか? フロイトがそれに賛成しなかったひとつの理由は、もともと心のスプリットと言う考え方が彼にとってはリアリティがなかったからではないか? もちろんフロイトに贔屓目に考えれば、であるが。フロイトは心が二つにスプリットするというイメージを抱けなかった。「そんな人見たことがない」と彼は「ヒステリー研究」(1895)の後半で、言ったのだが、彼は案外間違っていなかったのではないか。
もちろんこの意識のスプリッティングという考え方は、ジャネにもブロイアーにも提唱されたことだから、時の理論の主流になったわけだが、それ以来精神医学者も心理学者もそれを疑っていない。しかし解離の患者さんの体験をつぶさに聞くと、必ずしもそのような形をとっていないことが判る。別の自分はすでにそこにできていて、そこに意識が移るという体験だ。たとえば体外離脱という現象そのものがそうである。叩かれる直前に体から心が飛び出し、後ろで叩かれている自分を眺めている自分。これは体を離れたもうひとつの意識であり、しかも自分を映像として客観的に見ているという意味では完全なる他者性を備えていると見ていいだろう。これは分かれるということなのか? だとすればもともとの人間は叩かれる自分とそれを傍観している自分が共存していた、という前提になる。しかしそうではない。一歩下がった自分は、明らかにその瞬間に(一時的にではあれ)作り上げられたのだ。