同時に進めなければならない論考として、「解離における他者性」というテーマがある。
例えばこんな例を考える。
「交差点で赤が青に変わった時、前の車が一瞬で遅れた。すると頭の後ろで、『何をぐずぐずしてるんだ!』という声が聞こえた。『なんて怒りっぽい人なんだろう』と私は思いました。」
この方(Aさん)は異なる人格Bさんを持つとしよう。この頭の後ろの声は、Bさんのそれだったのだ。この場合二人のものの感じ方は大きく異なる。つまりAさんにとってBさんは十分な「他者性」を帯びているのである。
この「他者性」については、Aさんという主観にとっては自明で直接的な体験だろう。ところがそこで用いる「他者性」は、次のような例を考える際にはたちまち影が薄くなるだろう。
同じような交差点での状況でこんな例を考える。Aさんが運転席にいると、後部座席に乗っていた夫Bさんが「何をぐずぐずしてるんだ!」と声を上げる。「夫はなんて怒りっぽいんだろう」とAさんは思う。Aさんは夫のことを、自分とは異なった考え方を持つ他者として認識する。
この二番目の問題については、この「他者性」とは自明なものだ。こちらはもちろん現実の他者であるから、その声が他者性を帯びているのは当たり前だ。それに比べてDIDの別人格からの声は、それを「他者性」を帯びていると表現することには様々な躊躇が生まれるであろう。一つの典型はBさんの声が他者性を帯びること自体が問題であり、それは本来的な人間の在り方である。それはいわば望ましくない他者性である、という考え方だ。この考え方は識者の間にも広く蔓延していると言える。たとえばDSMのDIDの定義を見てみればいい。
「Dissociative Identity
Disorder reflects a failure to integrate various aspects of identity memory, and consciousness.」
つまりDIDは、種々のアイデンティティの統合が失敗した状態である、という考えを反映している。すなわちAさんに問題なのは、Bさんの声を他者として認識することそのものにある、ということになりかねない。しかしそうだろうか? 考え方によっては、Bさんの声を他者の声と認識することでAさんは混乱せずに済んでいるとは言えないだろうか?
もしこの問いかけが、DIDは正常である、という主張と捉えられかねないのであれば、次のように言いかえることが出来る。DIDの病理は、AにとってBが十分な他者性を持って認識されるという性質を持つ。そしてDIDのそのような性質は、DIDの神経学的な基盤からある程度説明が出来るであろう。
もちろんDIDの神経学的な基盤について説いた説はまだないわけだが。