2018年7月27日金曜日

解離―トラウマの身体への刻印 7


実はForrest さんの論文、難解でとても困っている。話の内容は結局は人間が「自分Me」を集積していって「全体としての自分Global Me」 に向かう際に、その統合を担っているのがOFCなどの前頭前野である、という話だ。そしてその機能が侵された場合、人はある体験を統合することが出来なくなる。例えば健全な状況では、ある人Aさんのちょっと違った側面を「同じ人のいくつかの側面」としてとらえ、「結局Aさんはいろいろな側面を持っている」という風にAさんを厚みを持った、多次元的な存在として把握するのであるが、それを逆に個別なものとして理解し、相互を別々のものとして理解すると、Aさん、A’さん、A’’さん・・・と別々の人として認識してしまう。そのことを、自己像に対して行なってしまうと、自己がどんどん分裂していく、という説がこのForrest先生のDIDの生成を説明する理論の骨子である。本当はもっと込み入っているけれど、簡単に言えばそういうことだ。ただどうもこれはDIDの本質を捉えていないような気がする。この体験では自己像がいくつかに分かれる、という説明にはなっても、心がAに宿ったり、A’に宿ったりという、複数の主体の存在を説明していないように思えるのだ。いったいこの問題に手を付けている理論はあるのだろうか? しばらくは情報収集が必要だ。ということでひとまずこの論文を離れよう。