第8章 社交恐怖への精神分析的アプローチを考える
(対人恐怖-精神分析による理論と治療 精神療法 37,
396-404, 2011)
わが国において従来頻繁に論じられてきた対人恐怖(現在では社交不安障害と呼ばれているものが概ねこれに相当する)は、精神分析的にはどのように扱われているのかというのが本章のテーマである。対人恐怖と精神分析というテーマについて考える際は、わが国における精神分析の草創期に、森田正馬が分析に示した姿勢を思い出す。対人恐怖についてもフロイト的なリビドー論に従った理解を示す精神分析の論客達に対して、森田は果敢に論戦を挑んだと言われる。それから約一世紀たつが、果たして精神分析は対人恐怖を扱う理論的な素地や治療方針を提供するに至ったのだろうか?
まず精神分析ということをいったん頭から取り去り、対人恐怖とは何かについて論じることからはじめたい。しかし最終的に示したいのは、社交恐怖についてもしっかりとした先進分析的な理論が存在するということである。
まず精神分析ということをいったん頭から取り去り、対人恐怖とは何かについて論じることからはじめたい。しかし最終的に示したいのは、社交恐怖についてもしっかりとした先進分析的な理論が存在するということである。
私個人は、対人恐怖とは「対人間(たいじんかん)における時間をめぐる闘いの病」と表現することが出来ると考える。対人恐怖は 自分と他者との間に生じる相克であるが、そこに時間の要素が決定的な形で関与しているということだ。
一般に自己表現には無時間的なものと時間的なものがある。無時間的とは、すでに表現されるべき内容は完成されていて、後は聴衆に対して公開されるだけのものである。すでに公開されている絵画や小説などを考えればいいであろう。動画や映画のようなものも含まれる。表現者が表現する行為は事実上終わっていて、その内容自体は基本的には変更されない。それが展示されたり出版されたりする瞬間に、作者は完全にどこかに消え去っていてもいい。それらが人々からどのような反応を得たかについて、作者はまったく知らないでもすむのである。