攻撃性への抑止が外れるとき
加害行動は現実の他者に向かうことには、それに対する強烈な抑止が働いていると述べた。ファンタジーでの加害行動が頻繁なだけ、この抑止のメカニズムは強固でなくてはならない。そして私たちがニュースなどで目にして戦慄するおぞましい事件は、その抑止が何らかの原因で外れた結果なのだ。
では攻撃性の抑止はどのような時原因ではずれるのだろうか? 私はその状況を以下に4つ示してみる。それらは 1.怨恨、復讐による場合、2.相手の痛みを感じることが出来ない場合、3.現実の攻撃が性的な快感を伴う場合、4.突然「キレる」場合である。
1.怨恨、復讐による場合
特定の人に深い恨みを抱いていたり、復讐の念に燃えていたりした場合、私たちはその人をいとも簡単に殺傷しおおせる可能性がある。家族を惨殺された遺族は、たとえ善良な市民でも、犯人への無期懲役や死刑求刑の判決を喜ぶだろう。復讐はかつては道徳的な行為であるとすら見なされていた。自分の愛する人を殺めた人に、刃物を向けることは、精神的に健康な人であっても、おそらくたやすいことになってしまうのである。しかし考えれば、これは実に恐ろしいことではないか?
私が特に注意を喚起したいのは、怨恨や被害者意識は純粋に主観的なものでありうるという事実だ。自分が他人から被害を受けたという体験を持つ場合、周囲の人にはそれがいかに筋違いで身勝手な考えのように思えても、本人にとっては暴力への抑止装置は外れてしまう可能性があるのである。この怨恨が統合失調症などによる被害妄想に基づいている際には、より顕著となるかもしれない。しかしそれ以外にも偶発的な、ないしは理不尽な怨恨は人生の中で数多く生じる可能性がある。幼少時に子供が虐待を受け続けたと感じても、当の親は子供の主観的な体験にまったく気づかないことも多い。しかしその結果として自分はこの世から求められていない存在であると感じ、自分は被害者であるという感覚が高まり、世界に対して恨みや憎しみを抱くようになってしまうのだ。それは神社仏閣に油を撒くというような愉快犯的な犯罪から始まり、無差別的な殺戮やテロ事件に至る場合さえある。すでに述べた秋葉原の事件などは、まさにそのようなことが起きていたと私は理解している。人はこれらの事件を耳にした時、「いったい何が起きたのか」と不思議に感じるかもしれない。原因不明の暴力の突出であり、人間の持つ攻撃性が生の形で露出したものと理解するかもしれない。しかし当事者にとっては世界への復讐として十分に正当化されるものかもしれないのだ。
2.相手の痛みを感じることが出来ない場合
私は先に、加害殺傷のファンタジーには、それを実際に行動に移すことへの恐怖と罪悪感が強力なストッパーになっていると述べた。すると恐怖や罪悪感がそもそも生まれつき希薄だったり欠如していたりする人の場合にはどうだろうか、ということが問題になる。それらの人はあたかもゲームで人を殺すように、実際の殺害行為に及ぶことになることになりはしないか? 自分の体の「動き」により大きな「効果」をもたらしたいという強い願望、そのためのファンタジーにおける殺戮に浸る傾向、そしてそれに罪悪感の希薄さや欠如が加われば、それが実際の他人に向けられても不思議はないとも考えられる。注目していただきたいのは、彼らが特別高い「攻撃性」を備えている必要すらないということだ。彼らの胸に生じる可能性のあるのは「どうしてテレビゲームで敵を倒すようにして人を殺してはいけないの?」という、彼らにとっては素朴な疑問であろう。
「人を殺してみたかった」という犯罪者の言葉を、私たちはこれまでに少なくとも二度聞いている。一人は2000年5月の豊川事件の加害者。もう一人は2014年 7月の佐世保での女子高生殺害事件においてである。後者の事件の加害少女は、小学校のときに給食に農薬を混入させ、中学のときには猫を虐待死させて解剖するという事件を起こしている。さらには2014年の事件の前には父親を金属バットで殴り重傷を負わせている。そこにはそれらの行為による「効果」に明らかに興味を持ち、楽しんでいるというニュアンスが伺えるのである。
ではどのような場合にこの「人の痛みを感じられない」という事態が生じるのだろうか?
他人の感情を感じ取りにくい病理として、私たちはまずはサイコパス、ないしはソシオパスと呼ばれる人々を思い浮かべるであろう。いわゆる犯罪者性格である。また自閉症やアスペルガー障害などの発達障害を考える人もいるかもしれない。確かに残虐な事件の背景に、犯人の発達障害的な問題が垣間見られることはしばしばある。
まずはコアなサイコパス群についてである。彼らの多くは一見通常の言語的なコミュニケーション能力や社会性を有し、そのために他人を欺きやすい。2001年の大阪池田小事件の犯人などは、典型的なサイコパスでありながらも、何度も結婚までしている。なぜ他人の痛みがわからない人がかりそめにも社会性を身につけるのかについては不明だが、おそらくある種の知性は、かなりの程度まで社会性を偽装することに用いることが出来るのであろう。あるいは彼らの他人の痛みを感じる能力には、「オン、オフ」があるのかもしれない。
最近わが国でも評判となっている著書『サイコパス・インサイド ― ある神経科学者の脳の謎への旅』で、James
Fallonは大脳の前頭前皮質の腹側部と背側部における機能の違いを説明する(Fallon,2014)。前者はいわば「熱い認知」に関係し、情動記憶や社会的、倫理的な認知に対応し、後者は「冷たい認知」、すなわち理性的な認知を意味する。そしてサイコパスにおいては特に前者の機能不全が観察されているとする。それに比べてむしろ後者の「冷たい認知」に障害を有するのが自閉症であるとするのだ。
そこでこの自閉症を含む発達障害に目を転じてみよう。実は過去20年の間に起きた殺人事件で加害者にアスペルガー障害が疑われたケースはかなりある。そのためにこの障害自体が攻撃性や加害性と関連付けて見られやすい傾向にある。しかし当事者のために一言述べておかなくてはならないことがある。それは自閉症やアスペルガー障害を持つ人々が人の心を読みにくいために加害的な行動をとりやすいということは、一般論としては決して言えないということだ。それどころか彼らの多くは高い知能を有し、人から信頼され、研究者や大学教員となって活躍している。
ここで他者の心を理解しにくいということは、道徳心や超自我が育たないという事を必ずしも意味しないという点についても強調しておきたい。むしろ彼らの持つ秩序へのこだわりは、加害行為に対する強い抑制ともなっている可能性がある。彼らの多くは、法律や規則や倫理則を犯すことを生理的に受け付けない。私の知るアスペルガー傾向を持つ人々の中には、車の運転をする際に法定速度を絶対に超えない人がいる。あるいは決められたアポイントメントの時間に一分たりとも遅れる事が出来ないという人もいる。その種の「決まり」を守らないことは、彼らにとっては感覚的に耐えられないようだ。
しかし「決まり」を守る道徳性と「他人に痛みを及ぼすこと」を抑止する道徳性は次元が異なるのもはたしかであろう。前者による罪悪感や羞恥心や耐えがたさは、いわば自分の側の不快や痛みである。他人の痛みを感じる力が希薄でも、それらの感情は体験されうるのだ。しかし後者は自分がどうであれ、他人の痛みがそのまま問題となる。方向性としては全く逆なのである。ただしもちろん「人を害してはならない」は「決まり」でもある。他人の苦痛を感じにくい人でも、「決まり」を破るという意味で加害行為はそれなりに耐えがたくもあるだろう。しかし他人の痛みを感じることによる決定的な抑止を欠いている場合には、加害行為はゲーム感覚で、あたかも仮想上の敵に対する攻撃と同じレベルで生じてしまう可能性があるのだろう。つまり発達障害傾向にサイコパス性が重なっている場合には、事情は大きく異なる可能性があるのだ。
3.現実の攻撃が性的な快感を伴う場合
相手を蹂躙し、殺害することに快感が伴う場合、攻撃性の発揮は執拗で、反復的となる。2015年の『文芸春秋』5月号に、「酒鬼薔薇」事件(1997年)の犯人Aの家裁審判の判決の全文が載せられている(佐々木、2015)。これを読むと、一見ごく普通の少年時代を送った少年Aが猟奇殺人を起こす人間へと変貌していく過程を克明に見ることが出来る。思春期を迎えると、悪魔に魅入られたように残虐な行為に興奮し、性的な快感を味わうようになる。少年Aの場合は、性的エクスタシーは常に人を残虐に殺すという空想と結びついていたという。
米国ではジェフリー・ダーマーという殺人鬼が1970~80年代に起こしたおぞましい事件が知られているが、彼の父親の手記も同様の感想を抱かせる(Dahmer, 1995)。ダーマーは主にオハイオ州やウィスコンシン州で合計17人の青少年を殺害し、その後に屍姦や死体の切断、さらには食肉行為を行った。母親は極めて精神的に不安定であったが、父親はそれなりの愛情を注いでいたようである。しかし父から昆虫採集用の科学薬品のセットをもらってからは、動物の死体をいじることに夢中になり、その対象も昆虫から小動物に移行する。彼のネクロフィリア(死体に性的興奮を覚える傾向)の追求にだれも歯止めをかけることはできなかったのだ。そして取り返しのつかない惨事が起こってしまう。
私たち人間にとって性的ファンタジーほど始末におえないものはない。私たちの多くは一生これに縛られて生きていくようなものだ。私たちの性的な空想は、その大半は同世代の異性に向けられ、また一部は同性に向けられる。ここまでは問題はない。しかし私たちの一部はそれを小児に向け、またごく一部はその対象をいたぶることでその興奮を倍加させ、そしてそのごく一部が、殺害することでエクスタシーを得る。犯人Aやジェフリー・ダーマーの場合のように。そしてそのすくなくとも一部は遺伝や生物学的な条件により規定されるようである。もし私たちがそのような運命を担ってしまったら、どうやって生きていけばいいのだろうか?
おそらく全人類の一定の割合の人々は、ネクロフィリア(死体嗜好)を有し、猟奇的な空想をもてあそぶ運命にあろう。彼らはみな犯人Aのような事件を起こすのだろうか? ここからは純粋に私の想像でしかないが、連続殺人事件の希少さを考えると、否と言わざるを得ない。彼らはおそらくそれ以外の面で普通の市民であろうし、自らの性癖を深く恥じ、一生秘密として心にしまいこみ続けるのではないだろうか? そしてごく一部が不幸にしてそれを実行に移してしまうのであろう。
4.突然「キレる」場合
殺傷事件の犯人のプロフィールにしばしば現れる、この「キレやすい」という傾向。普段は穏やかな人がふとしたきっかけで突然攻撃的な行動を見せる。犯罪者の更生がいかに進み、行動上の改善がみられても、それを一度で帳消しにしてしまうような、この「キレる」という現象。秋葉原事件の犯人は、人にサービス精神を発揮するような側面がありながら、中学時代から突然友人を殴ったり、ガラスを素手で叩き割ったりするという側面があった。池田小事件の犯人などは、精神病を装ったうえでの精神病院での生活が嫌で、病棟の5階から飛び降り、腰やあごの骨折をしたという。これは自傷行為でありながらも「キレた」結果というニュアンスがある。一体キレるというこの現象は何か。米国の精神科診断基準であるDSM-5では、この病的にキレやすい傾向について「間欠性爆発性障害」という名前がついているが、この障害は、おそらくあらゆる傷害事件の背景に潜んでいる可能性がある。
以上攻撃性への抑止が外れる4つの状況を示したが、現実にはこれらはおそらく複合して存在している可能性がある。殺人空想により性的快感を得る人間が、人の痛みを感じ取る能力にある程度欠け、同時にキレやすい傾向を有し、また幼少時に多少なりとも虐めや情緒的な剥奪を受け、そのことで世界に恨みを抱いた状態。それが凶悪事件を犯す人々のプロフィールをかなりよく描写しているのである。
ちなみにこれらの4つのうち、2番目と4番目に関しては、そこにサイコパスたちの持つ脳の器質的な問題が影響している可能性があると私は考える。殺人者の半数以上に脳の形態異常や異常脳波が見られるということが指摘されてもいる。近年のロンドンキングスカレッジのブラックウッドらの研究によると、暴力的な犯罪者は脳の内側前頭皮質と側頭極の灰白質(つまり脳細胞の密集している部分)の容積が少ないという。これらの部位は、他人に対する共感に関連し、倫理的な行動について考えるときに活動する場所といわれる。(http://www.reuters.com/article/2012/05/07/us-brains-psychopaths-idUSBRE8460ZQ20120507“Study finds psychopaths have distinct brain structure.) 前出のファロンの著書も同様の結果を報告しているのだ。