2018年6月2日土曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 13


7章 攻撃性を問い直す
  
暴力や攻撃性は本能なのか?

本章は、精神分析においてしばしば問題とされる、攻撃性や破壊性についての考察である。
攻撃性の発露としての暴力。これが私たちの社会から消えてなくなる日が訪れることは夢でしかないようだ。地球上のあちらこちらで紛争や殺戮が生じている。東西の冷戦が終焉したかと思えば、局地的な紛争はむしろ多くなっている。テロ行為も頻繁だ。米国では発砲事件が、銃のない日本でも殺傷事件が頻繁にメディアをにぎわしている。
 しかし人が人を殺める、暴行するというニュースが絶え間ない一方では、その頻度や程度はおそらく確実に減少しつつある。人類の歴史からも、古代人の遺骨を見る限り、男性の多くが他殺により世を去っていたことがうかがえるという。国家の統治機構が成立し、民主的な政治体制が整う前には、人が人を害するという行為はその多くが見過ごされ、黙認されてきた。江戸時代の「斬り捨て御免」(武士が無礼を働いた平民を斬る特権)を考えてみよう。また非民主的な政治体制では国家による人民の殺害こそより深刻だろう。現代社会においてすら、それがまかり通っている国は枚挙にいとまがない。加害行為の頻度の減少は、文明が進み人間の精神が洗練されたというよりは、むしろ個々の犯罪が公正に取り締まられ、DNA鑑定や防犯カメラなどの配備により犯人が特定される可能性が高まったのが一番の原因であるともいわれる。
私が以上のように述べれば、「人間にとって暴力や攻撃性は根源的なものであり、本能の一部である」と主張していると思われかねない。しかし私自身は、暴力や攻撃性は人間の本能と考える必然性はないという立場をとる。暴力行為が一部の人間に心地よさや高揚感をもたらし、そのために繰り返されるという事実は認めざるを得ない。ところがそれは暴力が生まれつき人間に備わったものであることを必ずしも意味しない。一部の人の脳の報酬系は、暴力行為により興奮するという性質を有するために、それらの行動を断ち切ることが難しいという不幸な事実が示されているにすぎないのだ。
 暴力には様々な形態があるが、このうち一部の暴力は、その根拠が明確であり、納得もしやすい。例えば他者からの攻撃を受けた際に発揮される身体的な暴力などだ。普段は冷静な人でも、道を歩いていていきなり自転車に突っ込まれそうになったら「危ないだろう!」と声を荒げ、怒りを表現するだろう。これは防衛本能の一部として理解されるべきであろうし、そこには正当性も見出せる。しかし暴力は時には正当な防衛を超えて過剰に発揮されたり、触発されることなく暴発して、罪のない人々を犠牲にしたりする。私たちが心を痛めるのは、この過剰な、あるいは見境のない暴力行為なのである。「なぜこのような残虐な行為をするのだろうか?」「原因は何なのか?」「再発を防ぐ方法はあるのだろうか?」などの疑問に明確な答えが得られることは少なく、そのたびに私たちは途方に暮れる。そして同時に心の中で次のような疑問を抱くかもしれない。「もしかして私の中にもこのような怒りや暴力が潜んでいて、いつかは爆発するのだろうか・・・・・」。この恐れもまた決して侮れないのだ。
本章は精神分析においてしばしば問題となる暴力や攻撃性の問題に一つの理解の方向性を示すことを目的にしている。私は精神科医であるから、その視点や方向性も「精神医学的」となる。暴力への理解はいまだに錯綜し、未整理のままに多くの理論が提唱されているとの印象を受ける。それは暴力をいかに封じ込めるか、あるいはそのようなことが可能なのか、という議論についてもいえる。そこで私の立場を最初に示すならば、それは暴力を一次的な本能として捉えず、もう少し広い視野から考えるというものである。この点について、以下にまず説明したい。

すべての源泉としての「活動性」と「動き」

暴力や攻撃性が本能か否かは、心の深層に分け入ることを専門とする精神分析の世界でさえ見解が大きく分かれている。フロイトが破壊性や攻撃性をその本能論の中で説明したことはとてもよく知られるが、必ずしもそれを支持しない人は分析家の中にも多い。攻撃性や暴力を本能と見なす根拠はないというのが私の立場であることはすでに述べたが、実は心の世界では「存在しない」ということの証明は難しい。私は数々の凶悪犯罪を犯した人々がこの世に存在することを十分に知っているが、それらの人たちの中には、生まれつき血に飢えたかのような特異な行動を、人生の早期から示す人も多い。それらの人たちにとっては、攻撃性は生まれつきそのような衝動が備わっていた可能性も否定できないと思っている。しかし一部の人にしか備わっていないものが「本能」なのかというと、もちろんそのようなことは言い切れない。一部の人が殺人を犯すからと言って、すべての人に殺人本能が潜んでいるとは言えないのと同じだ。
そこで私が本章で述べたいのは、幼児期に見られる攻撃性や暴力の大部分は、本能以外で説明されてしまうということである。そしてそれに関しては私の立場は精神分析家D.W. Winnicottのそれに近い。ウィニコットは攻撃性を本能としてはとらえず、その由来は、子宮の中で始まる活動性activityと動きmotility であるというAbram, 2007
Winnicott Melanie Klein の同時代人ということもあり、また一時はクライン派の一員と目されていたこともあり、攻撃性や死の本能という問題については人一倍関心を寄せていた。しかし最終的にはそれをKlein のように人間に本来備わった本能と考えることは拒否した。その代りに彼が重視したのは、攻撃性とは注意深く区別された概念である破壊性destructiveness ということである。これは赤ん坊が手足を動かし、時には結果的にものを破壊するという形をとるものの、それは乳児が対象を全体対象としてとらえる前の現象としてWinnicott は捉えた。彼はこれを前慈悲 pre-mercy とし、それを母親などの対象が攻撃としてとらえることなく、怒りや報復などを向けないことで(「生き残る」ことで)、子供はその対象を外界に存在する自分とは独立した良い対象として認識していくと論じた。このロジックは非常に美しく、また現実の乳児の心の在り方とも対応していると私は考える。
乳児が体を動かし、声を上げることで、それが周囲を変える。例えば手にあたった物が倒れ、また声を聞きつけた母親がとんでくる。ウィニコットはそれが真の自己の始まりであるという。これはあくまでも外界からの侵襲による子供の側の反応としての活動ではないことに注目するべきであろう。自分が動き、世界にある種の「効果」を与えることが、自分が自分であるという感覚、すなわち真の自己の感覚を生むのである。この「効果」に伴う充実感は、例えばRobert White(1959)の言うエフェスタンス(動機づけ)の議論につながる。彼は生体は自己の活動により環境に「効果」を生み出すことで、そこに効能感や能動感を味わうと考えたのである。

以前プレイセラピーをしていた時のことである。2歳の少年が積み木で遊んでいるところにちょっかいを出してみた。彼がまだうまく積み木を積めない様子を横目で見ながら、私は隣で悠々と5つ、6つと積み上げてみる。それに気が付いた子供は憤慨したように、手を延ばして私の積み木をガラガラと崩してしまった。私は頭を抱えて大げさに嘆いて、再び積み始める。子供が再びそれをガラガラと崩し、私は悲鳴を上げる。そのうちそれが一種の遊びのようになって二人の間で繰り返された。

私の積み上げた積み木に対するこの子供の行為は一種の暴力であろうか?彼は私を攻撃したかったのだろうか? そうではなかったと断定も出来ないであろうだろう。しかし積み上げられた積み木がガラガラ音をたてて崩れることそれ自体が心地よい刺激になって、子供はそれを繰り返すことを私に期待し、私たちは延々とそれを続けたのでもある。
 この子供が体験したのは何だろうか? 自分が積み木に少しだけ手を触れることで大きな音を立てて世界に変化が生じる。それがごく単純に楽しかったのであろう。これは彼にとっての自らの能動性の確立の役に立ったのであろうが、そこでは彼の神経系の発達、ニューロンの間の必要なシナプス形成と、それに遅れて生じ始めるシナプスの剪定 pruning とを促進したに違いない。もしこの人間の脳の成熟にとって必要なプロセスに本能が密接に結びついているとしたら、自分がある行為におよび世界にある種の「効果」が生じる、というその因果関係の習得はまさに優先されるべき課題であろう。Winnicottがその活動性と動きの概念を提示した時、まさにそれを論じていたのである。

「動き」と攻撃性、そしてそれに対する抑止

ここから一番誤解を招きやすい点の説明に入らなくてはならない。子供の側の「動き」による「効果」のもっとも顕著なものは、たとえば器物の破壊であり、人の感情表現、たとえば怒りや悲しみなどの苦痛や、喜びなのである。器物だったらそれは形が目に見えて崩れたり、ガラガラと大きな音を立てたりする。また人は怒りや喜びの表情を表す。それらの変化が子供を刺激するのだ。
 上に示したプレイセラピーでは、子供は私が数個積んだ積み木を崩して音を立て、その「効果」を楽しんだ。ではもし8個だったら?あるいは塔のように高く積み上げられた数十個の積み木なら? それを崩した時はより大きな音がし、それだけ「効果」もそれによる興奮も大きいだろう。そして同様に、あるいはそれ以上に子供がその「効果」に一番反応するのは、実は人の表情であり、感情なのだ。自分が微笑みかけることで母親に笑顔が生まれる。自分が泣き叫ぶと、母親が心配顔で駆けつける。積み木を崩すことで治療者が多少なりとも演技的に発した悲鳴も、それに加えていいかもしれない。
人が世界に変化を与え、それにより能動性の感覚を味わうとしたら、他人の感情状態の変化は最もよい候補と言えるというのが私の主張だが、そのことを、子供はどのようにして習得するのだろうか? それはあくまでも自分の感情体験を通してであろう。自分自身が突然味わう喜びや悲しみや恐怖や痛みの大きな感覚がその「効果」の証拠になる。そして同一化や投影の機制を通じて同様のことが人の心に起こることをモニターするだけで、その「効果」を推し量り、その大きさを感じ取ることができる。
 私たちはみな、しばしばこのような「効果」を人の心に起こそうと試みる。贈りものをしたり、サプライズバーティを仕掛けることで人が喜んだり驚いたりする姿を見ることは単純に楽しいものだ。しかし他人を攻撃し破壊することで引き起こす苦痛も、それに負けずとも劣らない「効果」となり得る。苦痛や恐怖を与えられた人間は、もがき、苦しみ、のた打ち回るといった反応を見せるだろう。そしてそこには破壊の極致としての殺人が含まれる。これほど劇的な「効果」はないはずだ。
 幼いころに地面にアリの巣を見つけ、さまざまなことを試みて無数のアリたちの反応を見た記憶のある方もいるだろう。人によっては砂糖粒を落としてアリが喜び群がるのを楽しんだかもしれない。しかし私達の一部は、アリの巣の入り口をふさいだり、水を注ぎこんだりして、慌てふためくアリを眺めたに違いない。アリを喜ばせるよりは、苦しませる方が興奮を誘ったはずだ。
しかし幸いにも、人間を相手にした私たちは、他者に苦痛という「効果」を及ぼすことには強烈な抑制がかかる。それは罪悪感には留まらない。他人を害することは実は私たちにとって最大の恐怖となる。これはおそらく道徳心や倫理観などをバイパスした、それよりもはるかに原始的な心のメカニズムが関係している。道徳心に無縁のはずの動物の社会、たとえばゴリラの社会でも、通常はそこに同種の個体に対する攻撃性への強い抑制が見られることを、霊長類の研究者も伝えている (山極、2007)
一般に集団を構成する動物には、相手に対する配慮、あるいはWinnicott の言葉で言えば慈悲mercyと呼べるような心性が本能の一部として組み込まれていて、発達のかなり早期から発動し始める。トラの子供たちが爪を立てることなくじゃれ合う時、母トラが子トラの首をそっとくわえて運ぶ時、相手の身体はおそらく事実上自分の身体の延長として体験されているのであろう。そして相手への加害行為には、自らを傷つけることと同等の強烈な抑制が加えられているに違いない。
その結果最大の「効果」を生む加害行為は、想像上の、バーチャルな世界ではごく自然に生き残っている。ストーリーやゲームの世界で、攻撃や殺戮がいかに私たちを興奮させ、私たちの精神生活の一部にさえなっているかを考えてみよう。たとえば私たちが親しむ推理小説はどうか?必ずと言っていいほど殺人がテーマになる。人が死なないとスリルが味わえず、面白みが半減するのだ。「〇〇殺人事件」というタイトルの代わりに、「〇〇捻挫事件」「××全治一か月事件」などと題された本を想像してみよう。人は店頭で手に取ってもすぐに棚に返してしまうだろう。あるいは囲碁や将棋を考えよう。相手の大石を仕取めたり、王将を追い詰めることは、無上の快感を与えるにちかいない。さらにはビデオゲームを例にとってもよい。ファイティングゲームでは敵を倒したり、ダメージを与えたりする様々なシーンが必ず登場する。これらの例は、私達がいかにイメージの世界では他人に苦しみを与えたり、破壊したり殺したりすることに喜びを見出しているかを示している。
 私は今でも時々、2008年6月に起きた秋葉原連続殺傷事件のことをよく思い出す。事件が報道された翌日の外来では、患者さんたちと事件のことがしばしば話題になった。そして驚いたのは、彼らの反応の多くが「自分は実行はしないが、犯人の気持ちがわかる」というものだったのだ。ちなみに私の外来の患者さんたちは特別暴力的な傾向を持つことのない、主として抑うつや不安に悩まされている人々であった。それだけに私には彼らの反応が意外だったのである。私はこの時は非常に驚いたが、今から考えれば少しは合点かいく。ファンタジーや遊びの世界で他者や物にダメージを与えることは、むしろ普通のことであり、むしろそれを現実の世界で抑えている理性が正常に働いていることを示しているのである。