2018年6月1日金曜日

精神分析最前線 推敲の推敲 12

6章 無意識を問い直す-自己心理学の立場から
自己心理学における無意識のとらえ方と治療への応用
最新精神医学 17 6 2012 年に所収

「精神分析は無意識を扱う学問である」ということは、あまりに自明なことだろう。しかし私が日ごろ感じるのは、分析家たちは、無意識をやや気軽に扱い過ぎてはいないだろうか、ということだ。特に分析的な教育やトレーニングを受けていない治療者でも、無意識の存在を無批判的に受け入れているという印象を持つ。
ただし私は無意識という概念が軽視されているのではないか、と言っているわけではない。無意識は多くの分析家にとってはとても丁重に扱われているのは確かだ。しかしその無意識という概念の持つ意味を、分析家たちは果たして常に問い直しているのだろうか? フロイトが述べたような無意識、すなわち抑圧された心の内容がそこに押し込められているような場としての無意識の存在を前提とすることに、分析家たちはあまりに無反省ではないか、と問うているのである。
精神分析には、無意識の重要性を否定はしないものの、そこから関心を逸らせる傾向にある理論も存在する。広い意味では自我心理学がそうであろう。自我心理学は無意識的な欲動そのものにではなく、その欲動に対して自我により動員される抵抗や防衛に焦点を移したのである。そうしてもうひとつがHeinz Kohutの創始した自己心理学である。自己心理学においては共感という概念の重要性が唱えられる一方では、そこに無意識がどのようにかかわるのかについての議論は少ない。本章ではこの自己心理学において扱われる無意識を通して、その概念の意味について考え直したい。
「内省・共感」は無意識に向けられるのか?
 Kohutの出現は、米国の精神分析界でも特異な出来事であった。彼は無意識の存在を真っ向から否定しているわけではないかった。しかしその概念にほとんど触れることなく、むしろ自己と他者との関係性にその関心を向けたのである。
 Kohut
1971年に「自己の分析」(Kohut, 1971) により、独自の精神分析理論を打ち出した時、その理論的な構成が従来の精神分析とは大きく異なることは明白であった。特に自我ego に代わる自己 self の概念や、共感の概念は極めて革新的といえた。Kohutはそれを従来の精神分析に対する補足であるとしたが、当時の精神分析界からはそのような受け止められ方をされなかったのも無理はなかったのである。
 Kohut理論の実質的なデビューは「自己の分析」に10年以上先立つ1959年の論文であった。「内省、共感、そして精神分析」(Kohut,1959というその論文は、その後に展開する基本的な概念のいくつかを旗幟鮮明な形で打ち出している。それはそれまで「ミスター・サイコアナリシス」とまで呼ばれ、古典的な分析理論に基づいていたKohutが打ち出した、まったく新しい路線だったのである。そこでこの論文をもとに、Kohutにとっての無意識の概念について探ってみよう。


(以下、とても長い章なので省略)